言淀んで、
「何は、」
 お蔦に目配せ、
「茶はないのか。」
「お茶ッて? 有りますわ。ほほほほ、まあ、人に叱言《こごと》を云う癖に、貴郎《あなた》こそ端近で見ッともないじゃありませんか―ありますわ―さあ、あっちへいらっしゃい。」
 と上ろうとする台所に、主税が立塞がっているので、袖の端をちょいと突いて、
「さあ、」
 め[#「め」に傍点]組は威勢よく、
「へい、跡は明晩……じゃねえ、翌《あした》の朝だ。」
「待《まち》なッてば、」
「可いよ、めのさん。」
「はて、どうしたら、」と首を振る。
「お前たちは、」
 と主税は呆れた顔で呵々《からから》と笑って、
「相応に気が利かないのに、早飲込だからこんがらがって仕様がない。め[#「め」に傍点]組もまた、さんざ油を売った癖に、急にそわそわせずともだ。まあ、待て、己《おれ》が話があると言えば。
 そこでだ……お茶と申すは、冷たい……」
 と口へつけて、指で飲む真似。
「と行《や》る一件だ。」
「め[#「め」に傍点]組に……」
「沢山だ、沢山だ。私《わっし》なら、」
 と声ばかり沢山で、俄然《がぜん》として蜂の腰、竜の口、させ、飲もうの構《かまえ》になる。
「不可《いけ》ません、もう飲んでるんだもの。この上|煽《あお》らして御覧なさい。また過日《いつか》のように、ちょいと盤台を預っとくんねえ、か何かで、」
 お蔦は半纏の袖を投げて、婀娜《あだ》に酔ッぱらいを、拳固で見せて、
「それッきり、五日の間行方知れずになっちまう。」
「旦那、こうなると頂きてえね、人間は依怙地《いこじ》なもんだ。」
「可いから、己が承知だから、」
「じゃ、め[#「め」に傍点]組に附合って、これから遊びにでも何でもおいでなさい。お腹が空いたって私、知らないから。さあ、そこを退《ど》いて頂戴よ、通れやしないわね。」
「ああ、もしもし、」
 主税は身を躱《かわ》して通しながら、
「御立腹の処を重々恐縮でございますが、おついでに、手前にも一杯、同じく冷いのを、」
「知りませんよ。」
 とつっと入る。
「旦も、ゆすり方は素人じゃねえ。なかなか馴れてら、」
 もう飲みかけたようなもの言いで、腰障子から首を突込み、
「今度八丁堀の私《わっし》の内へ遊びに来ておくんなせえ。一番《ひとつ》私がね、嚊々左衛門《かかあざえもん》に酒を強請《ねだ》る呼吸というのをお目にかけまさ。」
「女房《かみさん》が寄せつけやしまい、第一|吃驚《びっくり》するだろう、己なんぞが飛込んじゃ、山の手から猪《いのしし》ぐらいに。所かわれば品かわるだ、なあ、め[#「め」に傍点]組。」
 と下流《したながし》へかけて板の間へ、主税は腰を掛け込んで、
「ところで、ちと申かねるが、今の河野の一件だ。」
「何です、旦、」
 と吃驚するほど真顔。
「お前《めえ》さんや、奥様《おくさん》で、私《わっし》に言い憎いって事はありゃしねえ、また私が承って困るって事もねえじゃねえか。
 嚊々《かかあ》を貸せとも言いなさりゃしめえ、早い話が。何また御使い道がありゃ御用立て申します。」
「打附《ぶッつ》けた話がこうだ。南町はちと君には遠廻りの処を、是非廻って貰いたいと云うもんだから、家内《うち》で口を利いて行《ゆ》くようになったんだから、ここがちと言い憎いのだが、今云った、それ、膚合《はだあい》の合わない処だ。
 今来た、あの母親《おふくろ》も、何のかのって云っているからな、もう彼家《あすこ》へは行かない方が可いぜ。心持を悪くしてくれちゃ困るよ。また何だ、その内に一杯|奢《おご》るから。」
 とまめやかに言う。

       八

 皆まで聞かず、め[#「め」に傍点]組は力んで、
「誰が、誰があんな許《とこ》へ、私《わっし》ア今も、だからそう云ってたんで、頼まれたッて行きゃしねえ。」
「ところが、また何か気が変って、三枚並で駈附けるなぞと云うからよ。」
「そりゃ、何でさ、ええ、ちょいとその気になりゃなッたがね、商いになんか行くもんか。あの母親《おふくろ》ッて奴を冷かしに出かける肝《はら》でさ。」
「そういう料簡《りょうけん》だから、お前、南町御構いになるんだわ。」
 と盆の上に茶呑茶碗……不心服な二人《ににん》分……焼海苔《やきのり》にはりはり[#「はりはり」に傍点]は心意気ながら、極めて恭しからず押附《おッつけ》ものに粗雑《ぞんざい》に持って、お蔦が台所へ顕《あらわ》れて、
「お客様は、め[#「め」に傍点]組の事を、何か文句を言ったんですか。」
「文句はこっちにあるんだけれど、言分は先方《さき》にあったのよ。」
 と盆を受取って押出して、
「さあ、茶を一ツ飲みたまえ。時に、お茶菓子にも言分があるね、もうちっとどうか腹に溜りそうなものはないかい。」
「貴郎のように意地|汚《きたな》ではありません。め[#「め」に傍点]組は何にも食べやしないのよ。」
「食べやしねえばかりじゃありませんや、時々、このせいで食べられなくなる騒ぎだ。へへへ、」
 と帽子を上へ抜上げると、元気に額の皺《しわ》を伸ばして、がぶりと一口。鶺鴒《せきれい》の尾のごとく、左の人指《ひとさし》をひょいと刎《は》ね、ぐいと首を据えて、ぺろぺろと舌舐《したなめず》る。
 主税はむしゃりと海苔を頬張り、
「め[#「め」に傍点]組は可いが己の方さ、何とももって大空腹の所だから。」
「ですから御飯になさいなね、種々《いろん》な事を言《いっ》て、お握飯《むすび》を拵《こしら》えろって言いかねやしないんだわ。」
「実は……」と莞爾々々《にこにこ》、
「その気なきにしもあらずだよ。」
「可い加減になさいまし、め[#「め」に傍点]組は商売がありますよ。疾《はや》くお話しなさいなね。」
「そう、そう。いや、可い気なもんです。」
 と糸底を一つ撫でて、
「その言分というのは、こうだ。どうも、あの魚屋も可いが、門の外から(おう)と怒鳴り込んで、(先公居るか。)は困る。この間も御隠居をつかまえて、こいつあ婆さんに食わしてやれは、いかにもあんまりです。内じゃがえん[#「がえん」に傍点]に知己《ちかづき》があるようで、真《まこと》に近所へ極《きまり》が悪い。それに、聞けば芸者屋待合なんぞへ、主に出入《ではい》りをするんだそうだから、娘たちのためにもならず、第一家庭の乱れです。また風説《うわさ》によると、あの、魚屋の出入《でいり》をする家《うち》は、どこでも工面が悪いって事《こっ》たから、かたがた折角、お世話を願ったそうだけれど、宜しいように、貴下《あなた》から……と先ずざっとこうよ。」
 め[#「め」に傍点]組より、お蔦が呆れた顔をして、
「わざわざその断りに来なすったの。」
「そうばかりじゃなかったが、まあ、それも一ツはあった。」
「仰山だわねえ。」
「ちと仰山なようだけれど、お邸つき合いのお勝手口へ、この男が飛込んだんじゃ、小火《ぼや》ぐらいには吃驚《びっくり》したろう。馴れない内は時々火事かと思うような声で怒鳴り込むからな。こりゃ世話をしたのが無理だった。め[#「め」に傍点]組怒っちゃ不可《いけな》い。」
「分った……」
 と唐突《だしぬけ》に膝を叩いて、
「旦那、てっきりそうだ、だから、私ア違えねえッて云ったんだ。彼奴《あいつ》、兇状持だ。」
「ええ―」
 何としたか、主税、茶碗酒をふらりと持った手が、キチンと極《きま》る。
「兇状持え?」とお蔦も袖を抱いたのである。
 め[#「め」に傍点]組は、どこか当なしに睨《にら》むように目を据えて、
「それを、私《わっし》ア、私アそれをね、ウイ、ちゃんと知ってるんだ。知ってるもんだから、だもんだから。……」

       九

「ウイ、だから私《わっし》が出入っちゃ、どんな事で暴露《ばれ》ようも知れねえという肚《はら》だ。こっちあ台所《でえどこ》までだから、ちっとも気がつかなかったが、先方《さき》じゃ奥から見懸けたもんだね。一昨日《おととい》頃静岡から出て来たって、今も蔦ちゃんの話だっけ。
 状《ざま》あ見やがれ、もっと先から来ていたんだ。家風に合わねえも、近所の外聞もあるもんか、笑《わら》かしゃあがら。」
 と大きに気勢《きお》う。
「何だ、何だ、兇状とは。」
「あの、河野さんの母様《おっかさん》がかい。」
 とお蔦も真顔で訝《いぶか》った。
「あれでなくって、兇状持は、誰なもんかね、」
「ほほほ、貴郎《あなた》、真面目《まじめ》で聞くことはないんだわ。め[#「め」に傍点]組の云う兇状持なら、あの令夫人《おくさん》がああ見えて、内々大福餅がお好きだぐらいなもんですよ。お彼岸にお萩餅《はぎ》を拵《こしら》えたって、自分の女房《かみさん》を敵《かたき》のように云う人だもの。ねえ、そうだろう。め[#「め」に傍点]の字、何か甘いものが好《すき》なんだろう。」
「いずれ、何か隠喰《かくしぐい》さ、盗人上戸《どろぼうじょうご》なら味方同士だ。」
「へへ、その通り、隠喰いにゃ隠喰いだが、喰ったものがね、」
「何だ、」
「馬でさ。」
「馬だと……」
「旅|俳優《やくしゃ》かい。」
「いんや、馬丁《べっとう》……貞造って……馬丁でね。私《わっし》が静岡に落ちてた時分の飲友達、旦那が戦争に行った留守に、ちょろりと嘗《な》めたが、病着《やみつき》で、※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》の出るほど食ったんだ。」
 主税は思わず乗出して、酒もあったが元気よく、
「ほんとうか、め[#「め」に傍点]組、ほんとうかい。」
 と事を好んだ聞きようをする。
「嘘よ、貴郎、あの方たちが、そんなことがあって可いもんですか、め[#「め」に傍点]の字、滅多なことは云うもんじゃありません、他《ほか》の事と違うよ、お前、」
「あれ、串戯《じょうだん》じゃねえ。これが嘘なら、私《わっし》の鯛《てえ》[#ルビの「てえ」は底本では「てい」]は場違《ばちげえ》だ。ええ、旦那、河野の本家は静岡で、医者だろうね。そら、御覧《ごろう》じろ、河野ッてえから気がつかなかった。門に大《おおき》な榎《えのき》があって、榎|邸《やしき》と云や、お前《めえ》、興津《おきつ》江尻まで聞えたもんだね。
 今見りゃ、ここを出た客てえのは、榎邸の奥様《おくさん》で、その馬丁の情婦《いろおんな》だ。
 だから私ア、冷かしに行ってやろうと思ったんだ。嘘にもほんとうにも、児《こ》があらあ、児が。ああ、」
 また一口がぶりと遣《や》って、はりはり[#「はりはり」に傍点]を噛《か》んだ歯をすすって、
「ねえ、大勢|小児《こども》がありましょう。」
「南町の学士先生もその一|人《にん》、何でも兄弟は大勢ある。八九人かも知れないよ、いや、ほんとうなら驚いたな。」
「おお、待ちねえ、その先生は幾歳《いくつ》だね。」
「六か、七だ。」
「二十《はたち》とだね、するとその上か、それとも下かね。どっち道その人じゃねえ。何でも馬丁の因果のたねは婦人《おんな》なんだ。いずれ縁附いちゃいるだろうが、これほど確《たしか》な事はねえ。私《わっし》ア特別で心得てるんで、誰も知っちゃいますめえよ。知らぬは亭主ばかりなりじゃねえんだから、御存じは魚屋|惣助《そうすけ》(本名)ばかりなりだ。
 はははは、下郎は口のさがねえもんだ。」
 ぐいと唇を撫でた手で、ポカリと茶碗の蓋《ふた》をした。
「危え、危え、冷かしに行くどころじゃねえ。鰒汁《てっぽう》とこいつだけは、命がけでも留《や》められねえんだから、あの人のお酌でも頂き兼ねねえ。軍医の奥さんにお手のもので、毒薬《いっぷく》装《も》られちゃ大変だ。だが、何だ、旦那も知らねえ顔でいておくんねえ、とかく町内に事なかれだからね。」
「ああ、お前ももうおいででない。」
「行くもんか、行けったってお断りだ。お断り、へへへ、お断り、」
 と茶碗を捻《ひね》くる。
「厭《いや》な人だよ。仕様がないね、さあ、茶碗をお出しなね。」
「おお、」
 と何か考え込んだ、主税が急に顔を上げて、
「もうちっと精《くわ》しくその話を聞かせないか。」
 井戸端か
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