ら、婦人《おんな》の凧《たこ》が切れて来たかと、お源が一文字に飛込んだ。
「旦《だ》、旦那様、あの、何が、あの、あのあの、」
矢車草
十
お源のその慌《あわただ》しさ、駈《か》けて来た呼吸《いき》づかいと、早口の急込《せきこみ》に真赤《まっか》になりながら、直ぐに台所から居間を突切《つっき》って、取次ぎに出る手廻しの、襷《たすき》を外すのが膚《はだ》を脱ぐような身悶《みもだ》えで、
「真砂町《まさごちょう》の、」
「や、先生か。」
真砂町と聞いただけで、主税は素直《まっすぐ》に突立《つった》ち上る。お蔦はさそくに身を躱《かわ》して、ひらりと壁に附着《くッつ》いた。
「いえ、お嬢様でございます。」
「嬢的、お妙《たえ》さんか。」
と謂《い》うと斉《ひと》しく、まだ酒のある茶碗を置いた塗盆を、飛上る足で蹴覆《けかえ》して、羽織の紐《ひも》を引掴《ひッつか》んで、横飛びに台所を消えようとして、
「赤いか、」
お蔦を見向いて面《おもて》を撫でると、涼しい瞳で、それ見たかと云う目色《めつき》で、
「誰が見ても……」と、ぐっと落着く。
「弱った。」と頭《つむり》を圧《おさ》える。
「朝湯々々、」と莞爾《にっこり》笑う。
「軍師なるかな、諸葛孔明《しょかつこうめい》。」といい棄てに、ばたばたどんと出て行ったは、玄関に迎えるのである。
ふらふらとした目を据えて、まだ未練にも茶碗を放さなかった、め[#「め」に傍点]組の惣助、満面の笑《えみ》に崩れた、とろんこの相格《そうごう》で、
「いよう、天人。」と向うを覗《のぞ》く。
「不可《いけな》いよ、」
と強《きつ》く云う、お蔦の声が屹《きっ》としたので、きょとんとして立つ処を、横合からお源の手が、ちょろりとその執心の茶碗を掻攫《かっさら》って、
「失礼だわ。」
と極《き》めつける。天下大変、吃驚《びっくり》して、黙って天秤《てんびん》の下へ潜ると、ひょいと盤台の真中《まんなか》へ。向うの板塀に肩を寄せたは、遠くから路を開く心得、するするとこれも出て行《ゆ》く。
もう、玄関の、格子が開《あ》きそうなものだと思うと、音もしなければ、声もせぬので、お蔦が、
「御覧、」と目配せする。
覗くは失礼と控えたのが、遁腰《にげごし》で水口から目ばかり出したと思うと、反返《そりかえ》るように引込《ひっこ》んで、
「大変でございます。お台所口へいらっしゃいます。」
「ええ、こちらへ、」
と裾を捌《さば》くと、何と思ったか空を望み、破風《はふ》から出そうにきりりと手繰って、引窓をカタリと閉めた。
「あれ、奥様。」
「お前、そのお盆なんぞ、早くよ。」と釣鐘にでも隠れたそうに、肩から居間へ飜然《ひらり》と飛込む。
驚いたのはお源坊、ぼうとなって、ただくるくると働く目に、一目輝くと見たばかりで、意気地なくぺたぺたと坐って、偏《ひとえ》に恐入ってお辞儀をする。
「御免なさいよ。」
と優《やさし》い声、はッと花降る留南奇《とめき》の薫に、お源は恍惚《うっとり》として顔を上げると、帯も、袂《たもと》も、衣紋《えもん》も、扱帯《しごき》も、花いろいろの立姿。まあ! 紫と、水浅黄と、白と紅《くれない》咲き重なった、矢車草を片袖に、月夜に孔雀《くじゃく》を見るような。
め[#「め」に傍点]組が刎返《はねかえ》した流汁の溝溜《どぶだまり》もこれがために水澄んで、霞をかけたる蒼空《あおぞら》が、底美しく映るばかり。先祖が乙姫に恋歌して、かかる処に流された、蛙の児よ、いでや、柳の袂に似た、君の袖に縋《すが》れかし。
妙子は、有名な独逸《ドイツ》文学者、なにがし大学の教授、文学士酒井俊蔵の愛娘である。
父様《とうさん》は、この家《や》の主人、早瀬主税には、先生で大恩人、且つ御主《おしゅう》に当る。さればこそ、嬢|様《さん》と聞くと斉《ひと》しく、朝から台所で冷酒《ひやざけ》のぐい煽《あお》り、魚屋と茶碗を合わせた、その挙動《ふるまい》魔のごときが、立処《たちどころ》に影を潜めた。
まだそれよりも内証《ないしょ》なのは、引窓を閉めたため、勝手の暗い……その……誰だか。
十一
妙子の手は、矢車の花の色に際立って、温柔《しなやか》な葉の中に、枝をちょいと持替えながら、
「こんなものを持っていますから、こちらから、」
とまごつくお源に気の毒そう。ふっくりと優しく微笑《ほほえ》み、
「お邪魔をしてね。」
「どういたしまして、もう台なしでございまして、」と雑巾を引掴《ひッつか》んで、
「あれ、お召ものが、」
と云う内に、吾妻下駄《あずまげた》が可愛く並んで、白足袋薄く、藤色の裾を捌いて、濃いお納戸《なんど》地に、浅黄と赤で、撫子《なでしこ》と水の繻珍《しゅちん》の帯腰、向う屈《かが》みに水瓶《みずがめ》へ、花菫《はなすみれ》の簪《かんざし》と、リボンの色が、蝶々の翼薄黄色に、ちらちらと先ず映って、矢車を挿込むと、五彩の露は一入《ひとしお》である。
「ここに置かして頂戴よ。まあ、お酒の香《におい》がしてねえ、」と手を放すと、揺々《ゆらゆら》となる矢車草より、薫ばかりも玉に染む、顔《かんばせ》酔《え》いて桃に似たり。
「御覧なさい、矢車が酔ってふらふらするわ。」と罪もなく莞爾《にっこり》する。
お源はどぎまぎ、
「ええ、酒屋の小僧が、ぞんざいだものでございますから。」
「ちょいと、溢《こぼ》したの。やっぱり悪戯《いたずら》な小僧さん? 犬にばっかり弄《からか》っているんでしょう、私ン許《とこ》のも同一《おんなじ》よ。」
一廉《いっかど》社会観のような口ぶり、説くがごとく言いながら、上に上って、片手にそれまで持っていた、紫の風呂敷包、真四角なのを差置いた。
「お裾が汚れます、お嬢様。」
「いいえ、可《いい》のよ、」
と褄《つま》は上げても、袖は板の間に敷くのであった。
「あの、お惣菜になすって下さい。」
「どうも恐れ入ります。」
「旨《おいし》くはありませんよ、どうせ、お手製なんですから。」
少し途切れて、
「お内ですか。」
「はい、」
「主税さんは……あの旦那様は、」
と言いかけて、急に気が着いたか、
「まあ、どうしたの、暗いのねえ。」
成程、そこまでは水口の明《あかり》が取れたが、奥へ行く道は暗かった。
「も、仕様がないのでございますよ、ほんとうに、あら、どうしましょう。」
とお源は飛上って、慌てて引窓を、くるり、かたり。颯《さっ》と明るく虹の幻、娘の肩から矢車草に。
その時台所へ落着いて顔を出した、主人《あるじ》の主税と、妙子は面《おもて》を見合わせた。
「驚《おど》かして上げましょうと思ったんだけれども。」と、笑って串戯《じょうだん》を言いながら、瓶《かめ》なる花と対丈《ついたけ》に、そこに娘が跪居《ついい》るので、渠《かれ》は謹んで板に片手を支《つ》いたのである。
「驚かしちゃ、私|厭《いや》ですよ。」
「じゃ、なぜそんな水口からなんぞお入んなさいます。ちゃんと玄関へお出迎いをしているじゃありませんか。」
「それでもね、」
と愛々しく打傾き、
「お惣菜なんか持込むのに、お玄関からじゃ大業ですもの。それに、あの、花にも水を遣りたかったの。」
「綺麗ですな、まあ、お源、どうだ、綺麗じゃないか。」
「ほんとうにお綺麗でございますこと。」と、これは妙子に見惚《みと》れている。
「同じく頂戴が出来ますんで?」
「どうしようかしら。お茶を食《あが》るんなら可《いい》けれど、お酒を飲《のむ》んじゃ、可哀相だわ。」
「え、酒なんぞ。」
「厭な、おほほ、主税さん、飲んでるのね。」
「はは、はは、さ、まあ、二階へ。」
と遁出《にげだ》すような。後へするする衣《きぬ》の音。階子段《はしごだん》の下あたりで、主税が思出したように、
「成程、今日は日曜ですな。」
「どうせ、そうよ、(日曜)が遊びに来たのよ。」
十二
二階の六畳の書斎へ入ると、机の向うへ引附けるは失礼らしいと思ったそうで、火鉢を座中へ持って出て、床の間の前に坐り蒲団《ぶとん》。
「どうぞ、お敷きなさいまし。」
主税は更《あらたま》って、慇懃《いんぎん》に手を支《つ》いて、
「まあ、よくいらっしゃいました。」
「はい、」とばかり。長年内に居た書生の事、随分、我儘《わがまま》も言ったり、甘えたり、勉強の邪魔もしたり、悪口も言ったり、喧嘩《けんか》もしたり。帽子と花簪の中であった。が、さてこうなると、心は同一《おなじ》でも兵子帯《へこおび》と扱帯《しごき》ほど隔てが出来る。主税もその扱にすれば、お嬢さんも晴がましく、顔の色とおなじような、毛巾《ハンケチ》を便《たより》にして、姿と一緒にひらひらと動かすと、畳に陽炎《かげろう》が燃えるようなり。
「御無沙汰を致しまして済みません。奥様《おくさん》もお変りがございませんで、結構でございます。先生は相変らず……飲酒《めしあが》りますか。」
「誰《たれ》か、と同一《おんなじ》ように……やっぱり……」と莞爾《にっこり》。落着かない坐りようをしているから、火鉢の角へ、力を入れて手を掛けながら、床の掛物に目を反《そ》らす。
主税は額に手を当てて、
「いや、恐縮。ですが今日のは、こりゃ逆上《のぼ》せますんですよ。前刻《さっき》朝湯に参りました。」
「父様《とうさん》もね、やっぱり朝湯に酔うんですよ。不思議だわね。」
主税は胸を据えた体《てい》に、両膝にぴたりと手を置き、
「平に、奥様《おくさん》には御内分。貴女《あなた》また、早瀬が朝湯に酔っていたなぞと、お話をなすっては不可《いけ》ませんよ。」
「ほんとうに貴郎《あなた》の半分でも、父様が母様の言うことを肯《き》くと可いんだけれど、学校でも皆《みんな》が評判をするんですもの、人が悪いのはね、私の事を(お酌さん。)なんて冷評《ひやか》すわ。」
「結構じゃありませんか。」
「厭だわ、私は。」
「だって、貴女、先生がお嬢さんのお酌で快く御酒を召食《めしあが》れば、それに越した事はありません。後《いま》にその筋から御褒美《ごほうび》が出ます。養老の滝でも何でも、昔から孝行な人物の親は、大概酒を飲みますものです。貴女を(お酌さん。)なぞと云う奴は、親のために焼芋を調え、牡丹餅《おはぎ》を買い……お茶番の孝女だ。」
と大《おおい》に擽《くすぐ》って笑うと、妙子は怨めしそうな目で、可愛らしく見たばかり。
「私は、もう帰ります。」
「御串戯《ごじょうだん》をおっしゃっては不可ません。これからその焼芋だの、牡丹餅《おはぎ》だの。」
「ええ、私はお茶番の孝女ですから。」
「まあ、御褒美を差上げましょう。」
と主税が引寄せる茶道具の、そこらを視《なが》めて、
「お客様があったのね。お邪魔をしたのじゃありませんか。」
「いいえ、もう帰った後です。」
「厭な人ね?」
と唐突《だしぬけ》に澄まして云う。
「見たんですか。」
「見やしませんけれど、御覧なさいな。お茶台に茶碗が伏《ふさ》っているじゃありませんか、お茶台に茶碗を伏せる人は、貴下|嫌《きらい》だもの、父様も。」
「天晴《あっぱ》れ御鑑定、本阿弥《ほんあみ》でいらっしゃる。」と急須子《きびしょ》をあける。
「誰方《どなた》なの?」
「御存じのない者です。河野と云う私の友達……来ていたのはその母親ですよ。」
「河野ね? 主税さん。」と妙子はふっくりした前髪で打傾き、
「学士の方じゃなくって、」
「知っていらっしゃるか。」と茶筒にかけた手を留めた。
「その母様《おっかさん》と云うのは、四十余りの、あの、若造りで、ちょいとお化粧なんぞして、細面《ほそおもて》の、鼻筋の通った、何だか権式の高い、違って?」
「まったく。どうして貴女、」
「私の学校へ、参観に。」
新学士
十三
「昨日《きのう》は母様《かあさん》が来て御厄介でした。」
と、今夜主税の机の際《わき》に、河野|英吉《えいきち》が、まだ洋服の膝も崩さぬ前《さき》から、
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