二三度行ったわ。何じゃねえか、一度お前《めえ》、おう、先公、居るかいッて、景気に呼んだと思いねえ。」
お蔦は莞爾《にっこり》して、
「せんこう[#「せんこう」に傍点]ッて誰のこったね。」
「内の、お友達よ。河野さんは、学士だとか、学者だとか、先生だとか言うこッたから、一ツ奉って呼んだのよ。」
と鰭《ひれ》をばっさり。
四
「可《い》いじゃねえか、お前《めえ》、先公だから先公よ。何も野郎とも兄弟《きょうでえ》とも言ったわけじゃねえ。」
と庖丁の尖《さき》を危く辷《すべ》らして、鼻の下を引擦《ひっこす》って、
「すると何だ。肥満《ふとっちょ》のお三どんが、ぶっちょう面をしゃあがって、旦那様とか、先生とかお言いなさい、御近所へ聞えます、と吐《ぬか》しただろうじゃねえか。
ええ、そんなに奉られたけりゃ三太夫でも抱えれば可い。口に税を出すくらいなら、憚《はばか》んながら私《わっし》あ酒も啖《くら》わなけりゃ魚も売らねえ。お源ちゃんの前《めえ》だけれども。おっとこうした処は、お尻の方だ。」
「そんなに、お邪魔なら退《ど》けますよ。」
お源が俎板を直して向直る。と面《おもて》を合わせて、
「はははははは、今日《こんち》あ、」
「何かい、それで腹を立って行《ゆ》かないのかい。」
「そこはお前さんに免じて肝《かん》の虫を圧《おさ》えつけた。翌日《あくるひ》も廻ったがね、今度は言種《いいぐさ》がなお気に食わねえ。
今日はもうお菜《かず》が出来たから要らないよサ。合点《がってん》なるめえじゃねえか。私《わっし》が商う魚だって、品に因っちゃ好嫌《すききれ》えは当然《あたりめえ》だ。ものを見てよ、その上で欲しくなきゃ止すが可い。喰いたくもねえものを勿体《もってえ》ねえ、お附合いに買うにゃ当りやせん、食もたれの※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》なんぞで、せせり箸をされた日にゃ、第一|魚《うお》が可哀相だ。
こっちはお前《めえ》、河岸で一番首を討取る気組みで、佳いものを仕入れてよ、一ツおいしく食わせてやろうと、汗みずくで駈附けるんだ。醜女《すべた》が情人《いろ》を探しはしめえし、もう出来たよで断られちゃ、間尺に合うもんじゃねえ。ね、蔦ちゃんの前だけれど、」
「今度は私が背後《うしろ》を向こうか。」
とお蔦は、下に居る女中の上から、向うの棚へ手を伸ばして、摺鉢《すりばち》に伏せた目笊《めざる》を取る。
「そらよ、こっちが旦《だん》の分。こりゃお源坊のだ。奥様《おくさん》はあら[#「あら」に傍点]が可い、煮るとも潮《うしお》にするともして、天窓《あたま》を噛《かじ》りの、目球《めだま》をつるりだ。」
「私は天窓を噛るのかい。」
お蔦は莞爾《にっこり》して、め[#「め」に傍点]組にその笊を持たせながら、指の尖で、涼しい鯛の目をちょいと当る。
「ワンワンに言うようだわ、何だねえ、失礼な。」
とお源は柄杓《ひしゃく》で、がたりと手桶《ておけ》の底を汲《く》む。
「田舎ものめ、河野の邸へ鞍替《くらがえ》しろ、朝飯に牛《ぎゅう》はあっても、鯛《てえ》の目を食った犬は昔から江戸にゃ無えんだ。」
「はい、はい、」
手桶を引立《ひった》てて、お源は腰を切って、出て、溝板《どぶいた》を下駄で鳴らす。
「あれ、邪険にお踏みでない。私の情人《いろ》が居るんだから。」
「情人がね。」
「へい、」
と言ったばかり、こっちは忙がしい顔色《かおつき》で、女中は聞棄てにして、井戸端へかたかた行く。
「溝《みぞ》の中に、はてな。」
印半纏《しるしばんてん》の腰を落して、溝板を見当に指《ゆびさ》しながら、ひしゃげた帽子をくるりと廻わして、
「変ってますね。」
「見せようか。」
「是非お目に懸《かか》りてえね。」
「お待ちよ、」
と目笊は流《ながし》へ。お蔦は立直って腰障子へ手をかけたが、溝《どぶ》の上に背伸をして、今度は気構えて勿体らしく酸漿《ほおずき》をクウと鳴らすと、言合せたようにコロコロコロ。
「ね、可愛いだろう。」
カタカタカタ!
「蛙《けえろ》だ、蛙だ。はははは、こいつア可い。なるほど蔦ちゃんの情人かも知れねえ。」
「朧月夜《おぼろづきよ》の色なんだよ。」
得意らしく済ました顔は、柳に対して花やかである。
「畜生め、拝んでやれ。」
と好事《ものずき》に蹲込《しゃがみこ》んで、溝板を取ろうとする、め[#「め」に傍点]組は手品の玉手箱の蓋《ふた》を開ける手つきなり。
「お止しよ、遁《に》げるから、」
と言う処へ、しとやかに、階子段《はしごだん》を下りる音。トタンに井戸端で、ざあと鳴ったは、柳の枝に風ならず、長閑《のどか》に釣瓶《つるべ》を覆《かえ》したのである。
見知越
五
続いてドンドン粗略《ぞんざい》に下りたのは、名を主税《ちから》という、当家、早瀬の主人で、直ぐに玄関に声が聞える。
「失礼、河野さんに……また……お遊びに。さようなら。……」
格子戸の音がしたのは、客が外へ出たのである。その時、お蔦の留めるのも聞かないで、溝《どぶ》なる連弾《つれびき》を見届けようと、やにわにその蓋を払っため[#「め」に傍点]組は、蛙の形も認めない先に、お蔦がすっと身を退《ひ》いて、腰障子の蔭へ立隠れをしたので、ああ、落人でもないに気の毒だ、と思って、客はどんな人間だろうと、格子から今出た処を透かして見る。とそこで一つ腰を屈《かが》めて、立直った束髪は、前刻《さっき》から風説《うわさ》のあった、河野の母親と云う女性《にょしょう》。
黒の紋羽二重の紋着《もんつき》羽織、ちと丈の長いのを襟を詰めた後姿。忰《せがれ》が学士だ先生だというのでも、大略《あらまし》知れた年紀《とし》は争われず、髪は薄いが、櫛にてらてらと艶《つや》が見えた。
背は高いが、小肥《こぶとり》に肥った肩のやや怒ったのは、妙齢《としごろ》には御難だけれども、この位な年配で、服装《みなり》が可いと威が備わる。それに焦茶の肩掛《ショオル》をしたのは、今日あたりの陽気にはいささかお荷物だろうと思われるが、これも近頃は身躾《みだしなみ》の一ツで、貴婦人《あなた》方は、菖蒲《あやめ》が過ぎても遊ばさるる。
直ぐに御歩行《おはこび》かと思うと、まだそれから両手へ手袋を嵌《は》めたが、念入りに片手ずつ手首へぐっと扱《しご》いた時、襦袢《じゅばん》の裏の紅いのがチラリと翻《かえ》る。
年紀《とし》のほどを心づもりに知っため[#「め」に傍点]組は、そのちらちらを一目見ると、や、火の粉が飛んだように、へッと頸《うなじ》を窘《すく》めた処へ、
「まだ、花道かい?」
とお蔦が低声《こごえ》。
「附際《つけぎわ》々々、」
ともう一息め[#「め」に傍点]組の首を縮《すく》める時、先方《さき》は格子戸に立かけた蝙蝠傘《こうもりがさ》を手に取って、またぞろ会釈がある。
「思入れ沢山《だくさん》だ。いよう!」
おっとその口を塞いだ。声はもとより聞えまいが、こなたに人の居るは知れたろう。
振返って、額の広い、鼻筋の通った顔で、屹《きっ》と見越した、目が光って、そのまま悠々と路地を町へ。――勿論勝手口は通らぬのである。め[#「め」に傍点]組はつかつかと二足三足、
「おやおやおや、」
調子はずれな声を放って、手を拡げてぼうとなる。
「どうしたの。」
「可訝《おか》しいぜ。」
と急に威勢よく引返《ひっかえ》して、
「あれが、今のが、その、河野ッてえのの母親《おふくろ》かね、静岡だって、故郷《くに》あ、」
「ああ。」
「家《うち》は医師《いしゃ》じゃねえかしらん。はてな。」
「どうした、め[#「め」に傍点]組。」
とむぞうさに台所へ現われた、二十七八のこざっぱりしたのは主税である。
「へへへへへ、」
満面に笑《えみ》を含んだ、め[#「め」に傍点]組は蓮葉《はすっぱ》帽子の中から、夕映《ゆうやけ》のような顔色《がんしょく》。
「お早うござい。」
「何が早いものか。もう午飯《おひる》だろう、何だ御馳走は、」
と覗込《のぞきこ》んで、
「ははあ、鯛《てえ》だな。」
「鯛《たい》とおっしゃいよ、見ッともない。」
とお蔦が笑う。
「他の魚屋の商うのは鯛《たい》さ、め[#「め」に傍点]組のに限っちゃ鯛《てえ》よ、なあ、めい公。」
「違えねえ。」
「だって、貴郎《あなた》は柄にないわ、主公様《だんなさま》は大人しく鯛魚《たいとと》とおっしゃるもんです、ねえ、め[#「め」に傍点]のさん。」
「違えねえ。」
主税は色気のない大息ついて、
「何《なん》にしろ、ああ腹が空いたぜ。」
「そうでしょうッて、寝坊をするから、まだ朝御飯を食《あが》らないもの。」
「違えねえ、確《たしか》にアリャ、」
と、め[#「め」に傍点]組は路地口へ伸上る。
六
「大分御執心のようだが、どうした。」
と、め[#「め」に傍点]組のその素振に目を着けて、主税は空腹《すきはら》だというのに。……
「後姿に惚れたのかい。おい、もう可《い》い加減なお婆さんだぜ。」
「だって貴郎《あなた》にゃお婆さんでも、め[#「め」に傍点]組には似合いな年紀《とし》ごろだわ。ねえ、ちょいと、」
「へへへ、違えねえ。」
「よく、(違えねえ。)を云う人さ。」
「だから、確《たしか》だろうと思うんでさ。」
と呟《つぶや》いて独《ひとり》で飲込み、仰向いて天秤棒を取りながら、
「旦那、」
「己《お》ら御免だ。」と主税は懐手で一ツ肩を揺《ゆす》る。
「え、何を。」
「文でも届けてくれじゃないか。」
「御串戯《ごじょうだん》。いえさ、串戯は止して今のお客は直ぐに南町の家《うち》へ帰りそうな様子でしたかね。」
「むむ、ずッと帰ると言ったっけ。」
「難有《ありがて》え、」
額をびっしゃり。
「後を慕って、おおそうだ、と遣《や》れ。」
「行《ゆ》くのかい、河野さんへ。」
「ちょっぴりね、」
「じゃ可いけれど。貴郎、」
と主税を見て莞爾《にっこり》して、
「めい公がね、また我儘《わがまま》を云って困ったんですよ。お邸風を吹かしたり、お惣菜並に扱うから、河野さんへはもう行かないッて。折角お頼まれなすったものを、貴郎が困るだろうと思って、これから意見をしてやろうと思った処だったのよ。」
「そうか。」
となぜか、主税は気の無い返事をする。
「御覧なさい。そうすると急にあの通り。ほんとうに気が変るっちゃありやしない。まるで猫の目ね。」
「違えねえ、猫の目の犬の子だ。どっこい忙がしい、」
と荷を上げそうにするのを見て、
「待て、待て、」
「沢山よ。貴郎の分は三切あるわ。まだ昨日《きのう》のも残ってるじゃありませんか。めのさん、可いんだよ。この人にね、お前の盤台を覗かせると、皆《みんな》欲《ほし》がるンだから……」
「これ、」
旦那様苦い顔で、
「端近で何の事《こっ》たい、野良猫に扱いやあがる。」
「だっ……て、」
「め[#「め」に傍点]組も黙って笑ってる事はない、何か言え、営業の妨害《さまたげ》をする婦《おんな》だ。」
「肯《き》かないよ、めの字、沢山なんだから、」
「まあ、お前、」
「いいえ、沢山、大事な所帯だわ。」
「驚きますな。」
「私、もう障子を閉めてよ。」
「め[#「め」に傍点]組、この体《てい》だ。」
「へへへ、こいつばかりゃ犬も食わねえ、いや、四《し》寸ずつ食《あが》りまし。」
「おい、待てと云うに。」
「さっさとおいでよ、魚屋のようでもない。」
「いや、遣瀬《やるせ》がねえ。」
と天秤棒を心《しん》にして、め[#「め」に傍点]組は一ツくるりと廻る。
「お菜《かず》のあとねだりをするんじゃ、ないと云うに。」
と笑いながらお蔦を睨《にら》んで、
「なあ、め[#「め」に傍点]組。」
「ええ、」
「これから河野へ行《ゆ》くんだろう。」
「三枚並で駈附けまさ。」
「それに就いてだ、ちょいと、ここに話が出来た。」
七
「その、河野へ行くに就いてだが、」
と主税は何か、
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