の筋の係が、其奴を附廻して、同じ夜《よ》の午前二時頃に、浅草橋辺で、フトした星が附いて取抑えると、今度は袱紗《ふくさ》に包んだ紙入ぐるみ、手も着けないで、坂田氏の盗られた金子《かね》を持っていたんだ。
 ねえ、貴娘。拘引《こういん》して厳重に検べたんだね。どこへそれまで隠して置いたか。先刻は無かった紙入を、という事になる……とです。」
 あくまで慎重に教頭が云うと、英吉が軽※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそっか》しく、
「妙だ、妙だよ。妙さなあ。」

       五十

「攫徒《すり》の名も新聞に出ているがね、何とか小僧|万太《まんた》と云うんだ。其奴《そいつ》の白状した処では、電車の中で掏った時、大不出来《おおふでか》しに打攫《ふんづか》まって、往生をしたんだが、対手《あいて》が面《つら》を撲《なぐ》ったから、癪《しゃく》に障って堪《たま》らないので、ちょうど袖の下に俯向《うつむ》いていた男の袖口から、早業でその紙入をずらかし込んで、もう占めた、とそこで逆捻《さかねじ》に捻じたと云うんだね。
 ところで、まん[#「まん」に傍点]直しの仕事でもしたいものだと、柳橋辺を、晩《おそ》くなってから胡乱《うろ》ついていると、うっかり出合ったのが、先刻《さっき》、紙入れを辷《すべ》らかした男だから、金子《かね》はどうなったろうと思って、捕まったらそれ迄だ、と悪度胸で当って見ると、道理で袖が重い、と云って、はじめて、気が着いて、袂《たもと》を探してその紙入を出してくれて、しかし、一旦こっちの手へ渡ったもんだから、よく攫徒仲間が遣ると云う、小包みにでもして、その筋へ出さなくっちゃ不可《いか》んぞ、と念を入れて渡してくれた。一所に交番へ来い! とも云わずに、すっきりしたその人へ義理が有るから、手も附けないで突出すつもりで、一先ず木賃宿へ帰ろうとする処を、御用になりました。たった一時《ひととき》でも善人になってぼうとした処だったから掴まったんで、盗人心《ぬすっとごころ》を持った時なら、浅草橋の欄干《てすり》を蹈《ふ》んで、富貴竈《ふうきかまど》の屋根へ飛んでも、旦那方の手に合うんじゃないと、太平楽を並べた。太い奴は太い奴として。
 酒井さん。その攫徒の、袖の下になって、坂田氏の紙入を預ったという男は、誰だと思いますか、ねえ、これが早瀬なんだ。」
 と教頭は椅子をずらして、卓子を軽《かろ》く打って、
「どうです、貴娘が聞いても変だろうが。
 その筋じゃ、直《じ》きその関係者にも当りがついて、早瀬も確か一二度警察へ呼ばれた筈《はず》だ。しかしその申立てが、攫徒の言《ことば》に符合するし、早瀬もちっとは人に知られた、しかるべき身分だし、何は措《お》いても、名の響いた貴娘の父様の門下だ、というので、何の仔細《しさい》も無く済むにゃ済んだ。
 真砂町の御宅へも、この事に附いて、刑事が出向いたそうだが、そりゃ憚《はばか》って新聞にも書かず、御両親も貴娘には聞かせんだろう。
 で、とんだ災難で、早瀬は参謀本部の訳官も辞した、と新聞には体裁よく出してあるが、考えて御覧なさい。
 同じ電車に乗っていて、坂田氏が掏られた事をその騒ぎで知らん筈がない。知っていてだね、紙入が自分の袂に入っている事を……まあ、仮に攫徒に聞かれるまで気がつかなんだにしてからがだ、いよいよ分った時、面識の有る坂田氏へ返そうとはしないで、ですね、」
 河野にも言《ことば》を分けて、
「直接《じか》に攫徒に渡してやるもいかがなもんだよ。何よりもだね、そんな盗賊《どろぼう》とひそひそ話をして……公然とは出来んさ、いずれ密々話《ひそひそばなし》さ。」
 誰も否とは云わんのに、独りで嵩《かさ》にかかって、
「紙入を手から手へ譲渡《ゆずりわたし》をするなんて、そんな、不都合な、後暗い。」
「だがね、」
 とちょいちょい、新聞を見るようにしては、お妙の顔を伺い伺い、嬢があらぬ方を向いて、今は流眄《しりめづかい》もしなくなったので、果は遠慮なく視《なが》めていたのが、なえた様な声を出して、
「坂田が疑うように、攫徒の同類だという、そんな事は無いよ。君、」
「どうとも云えん。酒井氏の内に居たというだけで、誰の子だか素性も知れないんだというじゃないか。」
「父上《とうさん》に……聞いて……頂戴。」
 とお妙は口惜《くや》しそうに、あわれや、うるみ声して云った。
 二人|密《そっ》と目を合せて、苦々しげに教頭が、
「あえてそういう探索をする必要は無いですがね、よしんば何事も措いて問わんとして、少くとも攫徒に同情したに違いない、そうだろう。」
「そりゃあの男の主義かも知れんよ。」
「主義、危険極まる主義だ。で、要するにです、酒井さん。ああいう者と交際をなさるというと、先ず貴嬢《あなた》の名誉、続いてはこの学校の名誉に係りますから、以来、口なんぞ利いてはなりません。宜しいかね。危険だから近寄らんようになさい、何をするか分らんから、あんな奴は。」
 お妙は気を張《はり》つめんと勤むるごとく、熟《じっ》と瞶《みまも》る地図を的に、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、先刻《さっき》からどんなに堪《こら》えたろう。得《え》忍ばず涙ぐむと、もうはらはらと露になって、紫の包にこぼれた。あわれ主税をして見せしめば、ために命も惜むまじ。

       五十一

 いや、学士二人驚いた事。
「貴娘《あなた》、どうしたんだ。」
 と教頭が椅子から突立《つった》った時は、お妙は始からしっかり握った袂《たもと》をそのまま、白羽二重の肌襦袢の筒袖の肱《ひじ》を円《まろ》く、本の包に袖を重ねて、肩をせめて揉込むばかり顔を伏せて、声は立てずに泣くのであった。
「ええ、どうして泣くです。」
 靴音高く傍《そば》へ寄ると、河野も慌《あわただ》しく立って来て、
「泣いちゃ不可《いけ》ませんなあ、何も悲い事は無いですよ。」
「私は貴娘を叱ったんじゃない。」
「けれども、君の話振がちと穏《おだやか》でなかったよ。だから誤解をされたんだ。貴娘泣く事はありません、」
 と密《そっ》と肩に手を掛けたが、お妙の振払いもしなかったのは、泣入って、知らなかったせいであったに……
 河野英吉嬉しそうな顔をして、
「さあ、機嫌を直してお話しなさい。」と云う時、きょときょと目で、お妙の俯向《うつむ》いた玉の頸《うなじ》へ、横から徐々《そろそろ》と頬を寄せて、リボンの花結びにちょっと触れて、じたじたと総身を戦《わなな》かしたが、教頭は見て見ぬ振の、謂《おも》えらく、今夜の会計は河野|持《もち》だ。
 途端にお妙が身動をしたので、刎飛《はねと》ばされたように、がたりと退《すさ》る。
「もう帰っても可《い》いんですか。」
 と顔を隠したままお妙が云った。これには返す言《ことば》もあるまい。
「可いですとも!」
 と教頭が言いも果てぬに、身を捻《ひね》ったなりで、礼もしないで、つかつかと出そうにすると、がたがたと靴を鳴らして、教頭は及腰《およびごし》に追っかけて、
「貴娘内へ帰って、父様にこんな事を話しては不可《いか》んですよ。貴娘の名誉を重んじて忠告をしただけですから、ね、宜《い》いですかね、ね。」
 急《せ》いた声で賺《すか》すがごとく、顔を附着《くッつ》けて云うのを聞いて、お妙は立留まって、おとなしく頷《うなず》いたが、(許す。)の態度で、しかも優しかった。
「ああ。」と、安堵《あんど》の溜息を一所にして、教頭は室の真中に、ぼんやりと突立つ。
 河野の姿が、横ざまに飛んで、あたふた先へ立って扉《ドア》を開いて控えたのと、擦違いに、お妙は衝《つい》と抜けて、顔に当てた袖を落した。
 雨を帯びたる海棠《かいどう》に、廊下の埃《ほこり》は鎮まって、正午過《ひるすぎ》の早や蔭になったが、打向いたる式台の、戸外《おもて》は麗《うららか》な日なのである。
 ト押重《おっかさな》って、木《こ》の実の生《な》った状《さま》に顔を並べて、斉《ひと》しくお妙を見送った、四ツの髯の粘り加減は、蛞蝓《なめくじ》の這うにこそ。
 真砂町の家《うち》へ帰ると、玄関には書生が居て、送迎いの手数を掛けるから、いつも素通りにして、横の木戸をトンと押して、水口から庭へ廻って、縁側へ飛上るのが例で。
 さしむき今日あたりは、飛石を踏んだまま、母様《かあさん》御飯、と遣って、何ですね、唯今《ただいま》も言わないで、と躾《たしな》められそうな処。
 そうではなかった。
 例《いつも》の通りで、庭へ入ると、母様は風邪が長引いたので、もう大概は快いが、まだちっと寒気がする肩つきで、寝着《ねまき》の上に、縞《しま》の羽織を羽織って、珍らしい櫛巻で、面窶《おもやつ》れがした上に、色が抜けるほど白くなって、品の可いのが媚《なまめ》かしい。
 寝床の上に端然《きちん》と坐って、膝へ掻巻《かいまき》の襟をかけて、その日の新聞を読む――半面が柔かに蒲団《ふとん》に敷いている。
 これを見ると、どうしたか、お妙は飛石に突据えられたようになって、立留まった。
 美しい袂の影が、座敷へ通って、母様は心着いて、
「遅かったね。」
「ええ、お友達と作文の相談をしていたの。」
 優しくも教頭のために、腹案があったと見えて、淀みなく返事をしながら、何となく力なさそうに、靴を脱ぎかける処へ、玄関から次の茶の間へ、急いで来た跫音《あしおと》で、襖《ふすま》の外から、書生の声、
「お嬢さんですか、今日の新聞に、切抜きをなすったのは。」


     紫

       五十二

 お茶漬さらさら、大好《だいすき》な鰺《あじ》の新切で御飯が済むと、硯《すずり》を一枚、房楊枝《ふさようじ》を持添えて、袴を取ったばかり、くびれるほど固く巻いた扱帯《しごき》に手拭《てぬぐい》を挟んで、金盥《かなだらい》をがらん、と提げて、黒塗に萌葱《もえぎ》の綿天の緒の立った、歯の曲った、女中の台所|穿《ばき》を、雪の素足に突掛《つっか》けたが、靴足袋を脱いだままの裾短《すそみじか》なのをちっとも介意《かま》わず、水口から木戸を出て、日の光を浴びた状《さま》は、踊舞台の潮汲《しおくみ》に似て非なりで、藤間が新案の(羊飼。)と云う姿。
 お妙は玄関|傍《わき》、生垣の前の井戸へ出て、乾いてはいたが辷《すべ》りのある井戸|流《ながし》へ危気《あぶなげ》も無くその曲った下駄で乗った。女中も居るが、母様の躾《しつけ》が可《い》いから、もう十一二の時分から膚《はだ》についたものだけは、人手には掛けさせないので、ここへは馴染《なじみ》で、水心があって、つい去年あたりまで、土用中は、遠慮なしにからからと汲み上げて、釣瓶《つるべ》へ唇を押附《おッつ》けるので、井筒の紅梅は葉になっても、時々|花片《はなびら》が浮ぶのであった。直《すぐ》に桃色の襷《たすき》を出して、袂を投げて潜《くぐ》らした。惜気の無い二の腕あたり、柳の絮《わた》の散るよと見えて、井戸縄が走ったと思うと、金盥へ入れた硯の上へ颯《さっ》とかかる、水が紫に、墨が散った。
 宿墨を洗う気で、楊枝の房を、小指を刎《は》ねて※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》りはじめたが、何を焦《じ》れたか、ぐいと引断《ひっちぎ》るように邪険である。
 ト構内《かまえうち》の長屋の前へ、通勤《つとめ》に出る外、余り着て来た事の無い、珍らしい背広の扮装《いでたち》、何だか衣兜《かくし》を膨らまして、その上暑中でも持ったのを見懸けぬ、蝙蝠傘《こうもりがさ》さえ携えて、早瀬が前後《あとさき》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しながら、悄然《しょうぜん》として入って来たが、梅の許《もと》なるお妙を見る……
「おお、」
 と慌《あわただ》しい、懐しげな声をかけて、
「お嬢さん。」
 お妙はそれまで気がつかなかった。呼《よば》れて、手を留《とめ》て主税を見たが、水を汲んだ名残《なごり》か、顔の色がほんのりと、物いわぬ目は、露や、玉や、およそ声なく言《ことば》なき世の
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