て、臈《ろう》たけた眉が、雲の生際に浮いて見えるように俯向《うつむ》いているから、威勢に怖《お》じて、頭《かしら》も得《え》上げぬのであろう、いや、さもあらん、と思うと……そうでない。酒井先生の令嬢は、笑《えみ》を含んでいるのである。
 それは、それは愛々しい、仇気《あどけ》ない微笑《ほほえみ》であったけれども、この時の教頭には、素直に言う事を肯《き》いて、御前《おんまえ》へ侍《さぶら》わぬだけに、人の悪い、与《くみ》し易からざるものがあるように思われた。で、苦い顔をして、
「酒井さん、ここへ来なくちゃ不可《いか》んですよ。」
 時に教頭胸を反《そ》らして、卓子《テイブル》をドンと拳《こぶし》で鳴らすと、妙子はつつと勇ましく進んで、差向いに面《おもて》を合わせて、そのふっくりした二重瞼《ふたかわめ》を、臆《おく》する色なく、円く※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
「御用ですか。」
 と云った風采、云い知らぬ品威が籠《こも》って、閑耕は思いかけず、はっと照らされて俯向《うつむ》いた。
 教場でこそあれ、二人だけで口を利くのは、抑々《そもそも》生れて以来|最初《はじめて》である。が、これは教場以外ではいかなる場合にても、こうであろうも計られぬ。
 はて、教頭ほどの者が、こんな訳ではない筈《はず》だが、と更《あらた》めて疑の目を挙げると、脊もすらりとして椅子に居る我を仰ぐよ、酒井の嬢《むすめ》は依然として気高いのである。
「酒井さん……」
 声の出処《でどころ》が、倫理を講ずるようには行《ゆ》かぬ。
 咽喉《のど》が狂って震えがあるので、えへん! と咳《しわぶ》いて、手巾《ハンケチ》で擦《こす》って、四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したが、湯も水も有るのでない、そこで、
「小ウ使いい、」と怒鳴った。
「へ――い、」
と謹んだ返事が響く。教頭はこれに因って、大《おおい》にその威厳を恢復《かいふく》し得て、勢《いきおい》に乗じて、
「貴娘《あなた》に聞く事があるのですが、」
「はい。」
「参謀本部の翻訳をして、まだ学校なども独逸語を持っていますな――早瀬主税――と云う、あれは、貴娘の父様《とうさん》の弟子ですな。」
「ええ、そう…………」
「で、貴娘の御宅に置いて、修業をおさせなすったそうだが、一体あれの幾歳ぐらいの時からですか。」
「知りません。」
 と素気《そっけ》なく云った。
「知らない?」
 と妙な顔をして、額でお妙を見上げて、
「知らないですか。」
「ええ、前《ぜん》にからですもの。内の人と同一《おんなじ》ですから、いつ頃からだか分りませんの。」
「貴娘は幾歳《いくつ》ぐらいから、交際をしたですか。」
「…………」
 と黙って教頭を見て、しかも不思議そうに、
「交際って、私、厭《いや》ねえ。早瀬さんは内の人なんですもの。」と打微笑む。
「内の人。」
「ええ、」と猶予《ためら》わず頷《うなず》いた。
「貴娘、そういう事を言っては不可《いけ》ますまい。あれを(内の人)だなんと云うと、御両親をはじめ、貴娘の名誉に関わるでしょうが、ああ、」
 と口を開いてニヤリとする。
 お妙はツンとして横を向いた、眦《まなじり》に優《やさし》い怒が籠ったのである。
 閑耕は、その背けた顔を覗込《のぞきこ》むようにして、胸を曲げ、膝を叩きながら、鼻の尖に、へへん、と笑って、

「あんな者と、貴娘交際するなんて、芸者を細君にしていると云うじゃありませんか。汚わしい。怪しからん不行跡です。実に学者の体面を汚すものです。そういう者の許《とこ》へ貴娘出入りをしてはなりません。知らない事はないのでしょう。」
 妙子は何にも言わなかったが、はじめて眩《まぶ》しそうに瞬きした。
 小使が来て、低頭して命を聞くと、教頭は頤《あご》で教えて、
「何を、茶をくれい。」
「へい。」
「そこを閉めて行け、寄宿生が覗くようだ。」

       四十八

 扉《と》が閉ると、教頭|身構《みがまえ》を崩して、仰向けに笑い懸けて、
「まあ、お掛なさい、そこへ。貴娘《あなた》のためにならんから、云うのだよ。」
 わざわざ立って突着けた、椅子の縁《へり》は、袂《たもと》に触れて、その片袖を動かしたけれども、お妙は規則正しいお答礼《じぎ》をしただけで、元の横向きに立っている。
「早瀬の事はまだまだ、それどころじゃないですが、」と直ぐにまた眉を顰《ひそ》めて、談じつけるような調子に変って、
「酒井さん、早瀬は、ありゃ罪人だね、我々はその名を口にするさえ憚《はばか》るべき悪漢ですね。」
 とのッそり手を伸ばして、卓子《テイブル》の上に散ばった新聞を撫でながら、
「貴娘、今日のA……新聞を見んのですか。」
 一言聞くと、颯《さっ》と瞼《まぶた》を紅《くれない》にして、お妙は友染の襦袢《じゅばん》ぐるみ袂の端を堅く握った。
「見ませんか、」
 と問返した時、教頭は傲然《ごうぜん》として、卓子に頤杖《あごづえ》を支《つ》く。
「ええ、」とばかりで、お妙は俯向《うつむ》いて、瞬きしつつ、流眄《しりめづかい》をするのであった。
「別に、一大事に関して早瀬は父様の許《とこ》へ、頃日《このごろ》に参った事はないですかね。或《あるい》は何か貴娘、聞いた事はありませんか。」
 小さな声だったが判然《はっきり》と、
「いいえ。」と云って、袖に抱いた風呂敷包みの紫を、皓歯《しらは》で噛《か》んだ。この時、この色は、瞼のその朱《あけ》を奪うて、寂《さみ》しく白く見えたのである。
「行かん筈《はず》はないでしょうが、貴娘、知っていて、まだ私の前に、秘《かく》すのじゃないかね。」
「存じませんの。」
 と頭《つむり》を掉《ふ》ったが、いたいけに、拗《す》ねたようで、且つくどいのを煩《うる》さそう。
「じゃ、まあ、知らないとして。それから、お話するですがね。早瀬は、あれは、攫徒《すり》の手伝いをする、巾着切《きんちゃくきり》の片割のような男ですぞ!」
 簪《かんざし》の花が凜《りん》として色が冴えたか気が籠って、屹《きっ》と、教頭を見向いたが、その目の遣場《やりば》が無さそうに、向うの壁に充満《いっぱい》の、偉《おおい》なる全世界の地図の、サハラの砂漠の有るあたりを、清《すずし》い瞳がうろうろする。
「勿論早瀬は、それがために、分けて規律の正しい、参謀本部の方は、この新聞が出ない先に辞職、免官に、なったです。これはその攫徒に遭った、当人の、御存じじゃろうね、坂田礼之進氏、あの方の耳に第一に入ったです。
 で、見ないんなら御覧なさい。他《ほか》の二三の新聞にも記《か》いてあるですが。このA……が一番|悉《くわ》しい。」
 と落着いて向うへ開いて、三の面を指で教えて、
「ここにありますが、お読みなさい。」
「帰って、私、内で聞きます。」と云った、唇の花が戦《そよ》いだ。
「は、は、は、貴娘、(内の人)だなんと云ったから、極《きま》りが悪いかね。何、知らないんなら宜《よろ》しいです。私は貴娘の名誉を思って、注意のために云うんだから、よくお聞きなさい。帰って聞いたって駄目さね。」
 と太《いた》く侮《あなど》った語気を帯びて、
「父様は、自分の門生だから、十に八九は秘《かく》すですもの。何で真相が解りますか。」
 コツコツ廊下から剥啄《ノック》をした者がある。と、教頭は、ぎろりと目金を光らしたが、反身《そりみ》に伸びて、
「カム、イン、」と猶予《ためら》わずに答えた。
 この剥啄と、カム、インは、余りに呼吸が合過ぎて、あたかもかねて言合せてあったもののようである。
 すなわち扉《ドア》を細目に、先ず七分立《しちぶだち》の写真のごとく、顔から半身を突入れて中を覗いたのは河野英吉。白地に星模様の竪《たて》ネクタイ、金剛石《ダイアモンド》の針留《ピンどめ》の光っただけでも、天窓《あたま》から爪先《つまさき》まで、その日の扮装《いでたち》想うべしで、髪から油が溶《とろ》けそう。
 早や得《え》も言われぬ悦喜の面で、
「やあ、」と声を懸けると、入違いに、後をドーン。
 扉の響きは、ぶるぶると、お妙の細い靴の尖に伝わって、揺らめく胸に、地図の大西洋の波が煽《あお》る。

       四十九

「失敬、失敬。」
 とちと持上げて、浮かせ気味に物|馴《な》れた風で、河野は教頭と握手に及んで、
「やあ、失敬、」と云いながら、お妙の背後《うしろ》から、横顔をじろりと見る。
 河野の調子の発奮《はず》んだほど、教頭は冷やかな位に落着いた態度で、
「どこの帰りか。」
「大学(と力を入れて、)の図書館に検《しら》べものをして、それから精養軒で午飯《ひるめし》を食うて来た。これからまたH博士の許《とこ》へ行かねばならん。」
 と忙《せわ》しそうに肩を掉《ふ》って、
「君(とわざと低声《こごえ》で呼んで、)この方は……」
「生徒――」と見下げたように云う。
「はあ、」
「ミス酒井と云う、」と横を向いて忍び笑を遣る。
「うむ、真砂町の酒井氏の、」
 と首を伸ばして、分ったような、分らぬような、見知越《みしりごし》のような、で、ないような、その辺あやふやなお妙の顔の見方をしたが、
「君、紹介してくれたまえ。」
「学校で、紹介は可訝《おかし》かろう。」
「だってもう教場じゃないじゃないか。」
「それでは、」と真《まこと》に余儀なさそうに、さて、厳格に、
「酒井さん、過般《いつか》も参観に見えられた、これは文学士河野英吉君。」
 同じ文字を露《あらわ》した大形の名刺の芬《ぷん》と薫るのを、疾《と》く用意をしていたらしい、ひょいと抓《つま》んで、蚤《はや》いこと、お妙の袖摺《そです》れに出そうとするのを、拙《まず》い! と目で留め、教頭は髯で制して、小鼻へ掛けて揉み上げ揉み上げ揉んだりける。
 英吉は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、急いでその名刺と共に、両手を衣兜《かくし》へ突込んだが、斜めに腰を掉るよと見れば、ちょこちょこ歩行《ある》きに、ぐるりと地図を背負《しょ》って、お妙の真正面《まっしょうめん》へ立って、も一つ肩を揉んで、手の汗を、ずぼんの横へ擦《こす》りつけて、清めた気で、くの字|形《なり》に腕を出したは、短兵急に握手の積《つもり》か、と見ると、揺《ゆる》がぬ黒髪に自然《おのず》と四辺《あたり》を払《はらわ》れて、
「やあ、はははは、失敬。」
 と英吉大照れになって、後ざまに退《さが》って(おお、神よ。)と云いそうな態《たい》になり、
「お遊びにいらっしゃい、妹たちが、学校は違いますが、皆《みんな》貴女を知っているのですよ。はあ……」
 と独《ひとり》で頷《うなず》いて、大廻りに卓子《テイブル》の端を廻って、どたりと、腹這《はらんば》いになるまでに、拡げた新聞の上へ乗懸《のりかか》って、
「何を話していたのだい。」
 教頭をちょいと見れば、閑耕は額で睨《ね》めつけ、苦き顔して、その行過《やりすごし》を躾《たしな》めながら、
「実は、今、酒井さんに忠告をしている処だ。」
 お妙は色をまた染めた。
「そうだとも! ええ、酒井さん……」
 黙っているから、
「酒井さん!」
「ははい、」と声がふるえて聞える。
「貴娘《あなた》知らんのならお聞きなさい。頃日《このごろ》の事ですが、今も云った、坂田礼之進氏が、両国行の電車で、百円ばかり攫徒《すり》に掏《や》られたです。取られたと思うと、気が着いて、直《ただち》に其奴《そいつ》を引掴《ひッつかま》えて、車掌とで引摺下ろしたまでは、恐入って冷却していたその攫徒がだね、たちまち烈火のごとくに猛《たけ》り出して、坂田氏をなぐった騒ぎだ。」
「撲《なぐ》られたってなあ、大人、気の毒だったよ。」
「災難とも。で、何です。巡査が来たけれども、何の証拠も挙《あが》らんもんで、その場はそれッきりで、坂田氏は何の事はない、打《ぶ》たれ損の形だったんだね。お聞きなさい――貴娘。
 証拠は無かったが、怪《あやし》むべき風体の奴だから、そ
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