から塩で食うと、大口を開けられたように感じたそうで、襖の蔭で慄然《ぞっ》と萎《すく》んで壁の暗さに消えて行く。
 慌てて、あとを閉めないで行ったから、小芳が心付いて立とうとすると、するすると裾を捌《さば》いて、慌《あわただ》しげに来たのは綱次。
 唯今の注進に、ソレと急いで、銅壺《どうこ》の燗《かん》を引抜いて、長火鉢の前を衝《つ》と立ち状《ざま》に来た。
 前垂掛けとはがらりと変って、鉄お納戸地に、白の角通《かくとお》しの縮緬《ちりめん》、かわり色の裳《もすそ》を払って、上下《うえした》対の袷《あわせ》の襲《かさね》、黒繻珍《くろしゅちん》に金茶で菖蒲《あやめ》を織出した丸帯、緋綸子《ひりんず》の長襦袢《ながじゅばん》、冷く絡んだ雪の腕《かいな》で、猶予《ため》らう色なく、持って来た銚子を向けつつ、
「お酌、」
 冴えた音を入れると、鶯のほうと立つ、膳の上の陽炎《かげろう》に、電気の光が和《やわら》いで、朧々《おぼろおぼろ》と春に返る。
「まだ宵の口かい。」
「柏家だけではね。」と莞爾《にっこり》する。
「遠慮なく出懸けるが可い、しかし猥褻《わいせつ》だな。」
「あら、なぜ?」
「十一時過ぎてからの座敷じゃないか。」
「御免なさいよ、苦界だわ。ねえ、早瀬さん、さあ、めしあがれよ、ぐうと、」
「いいえ、もう、」
 主税は猪口《ちょく》を視《なが》むるのみ。
「お察しなさいよ。」
 と先生にまたお酌をして、
「御贔屓《ごひいき》の民子ちゃんが、大江山に捕まえられていますから、助出しに行くんだわ。渡辺の綱次なのよ。」
「道理こそ、鎖帷子《くさりかたびら》の扮装《いでたち》だ。」
「錣《しころ》のように、根が出過ぎてはしなくって。姉さん、」
 と髢《たぼ》に手を触る。
「いいえ、」
 と云って、言《ことば》の内に、(そんな心配をおしでない。)の意味が籠る。綱次は、(安心)の体に、胸をちょいと軽く撫でて、
「おいしいものが、直ぐにあとから、」
「綱次姉さん、また電話よ。」
 と廊下から雛妓《こども》の声。
「あい、あい、あちらでも御用とおっしゃる。では、直《じ》き行って来ますから、貴下《あなた》帰っちゃ、厭ですよ、民ちゃんを連れて来て、一所にまたお汁粉をね。」
 酒井は黙って頷《うなず》いた。
「早瀬さん、御緩《ごゆっく》り。」
 と行く春や、主税はそれさえ心細そうに見送って、先生の目から面《おもて》を背ける。
 酒井は、杯を、つっと献《さ》し、
「早瀬、近う寄れ、もっと、」
 と進ませ、肩を聳《そびや》かして屹《きっ》と見て、
「さあ、一ツ遣ろう。どうだ、別離《わかれ》の杯にするか。」
「…………」
「それとも婦《おんな》を思切るか。芳、酌《つ》いでやれ、おい、どうだ、早瀬。これ、酌いでやれ、酌がないかよ。」
 銚子を挙げて、猪口《ちょく》を取って、二人は顔を合せたのである。

       四十五

 その時、眼光稲妻のごとく左右を射て、
「何を愚図々々《ぐずぐず》しているんだ。」
「私がお願いでござんすから、」と小芳は胸の躍るのを、片手で密《そっ》と圧《おさ》えながら、
「ともかくも今夜の処は、早瀬さんを帰して上げて下さいまし。そうしてよく考えさして、更《あらた》めてお返事をお聞きなすって下さいましな、後生ですわ、貴郎《あなた》。
 ねえ、早瀬さん、そうなさいよ。先生も、こんなに仰有《おっしゃ》るんですから、貴下《あなた》もよく御分別をなさいまし、ここは私が身にかえてお預り申しますから。よ……」
 と促がされても立ちかねる、主税は後を憂慮《きづか》うのである。
「蔦吉さんが、どんなに何《なん》したって、私が知らない顔をしていれば可《よ》かったのですけれど、思う事は誰も同一《おなじ》だと、私、」
 と襟に頤《おとがい》深く、迫った呼吸《いき》の早口に、
「身につまされたもんだから、とうとうこんな事にしてしまって、元はと云えば……」
「そんな、貴女《あなた》が悪いなんて、そんな事があるもんですか。」
 と酒井の前を庇《かば》う気で、肩に力味《りきみ》を入れて云ったが、続いて言おうとする、
(貴女がお世話なさいませんでも……)の以下は、怪しからず、と心着いて、ハッとまた小さくなった。
「いいえ、私が悪いんです。ですから、後で叱られますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「ならん! この場に及んで分別も糸瓜《へちま》もあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、婦《おんな》を連れて駈落《かけおち》をしかねない。短兵急に首を圧《おさ》えて叩っ斬ってしまうのだ。
 早瀬。」
 と苛々した音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支えん、婦《おんな》が怨んでも、泣いても可い。憧《こが》れ死《じに》に死んでも可い。先生の命令《いいつけ》だ、切れっちまえ。
 俺を棄てるか、婦を棄てるか。
 むむ、この他《ほか》に言句《もんく》はないのよ。」
(どうだ。)と頤《あご》で言わせて、悠然と天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓に肱《ひじ》をついた。
「婦を棄てます。先生。」
 と判然《はっきり》云った。そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口《ちょく》と相触れて、カチリと鳴った。
「幾久く、お杯を。」と、ぐっと飲んで目を塞いだのである。
 物をも言わず、背向《うしろむ》きになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
「そっちの、そっちの熱い方を。――もう一杯《ひとつ》、もう一ツ。」
 と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物を懐へ、羽織の紐を引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」
 小芳はひたと、酒井の肩に、前髪の附くばかり、後に引添《ひっそ》うて縋《すが》り状《ざま》に、
「お帰んなさるの。」
「謹が病気よ。」
 と自分で雨戸を。
「それは不可《いけ》ませんこと。」と縁側に、水際立ってはらりと取った、隅田の春の空色の褄《つま》。力なき小芳の足は、カラリと庭下駄に音を立てたが、枝折戸のまだ開《あ》かぬほど、主税は座をずらして、障子の陰になって、忙《せわし》く巻莨《まきたばこ》を吸うのであった。
 二時《ふたとき》ばかり過ぎてから、主税が柏家の枝折戸を出たのは、やがて一時に近かったろう。その時は姉さんはじめ、綱次ともう一人のその民子と云う、牡丹《ぼたん》の花のような若いのも、一所に三人で路地の角まで。
「お互に辛抱するのよう。」と酒気《さかけ》のある派手な声で、主税を送ったのは綱次であった。ト同時に渠《かれ》は姉さんと、手をしっかりと取り合った。
 時に、寂《ひっそ》りした横町の、とある軒燈籠の白い明《あかり》と、板塀の黒い蔭とに挟《はさま》って、平《ひらた》くなっていた、頬被《ほおかむり》をした伝坊が、一人、後先を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、密《そっ》と出て、五六歩行過ぎた、早瀬の背後《うしろ》へ、……抜足で急々《つかつか》。
「もし、」
「…………」
「先刻《さっき》アどうも。よく助けて下すったねえ。」
 と頬かむりを取った顔は……礼之進に捕まった、電車の中の、その半纏着《はんてんぎ》。


     誰が引く袖

       四十六

 土曜日は正午《ひる》までで授業が済む――教室を出る娘たちで、照陽女学校は一斉に温室の花を緑の空に開いたよう、溌《ぱっ》と麗《うららか》な日を浴びた色香は、百合よりも芳しく、杜若《かきつばた》よりも紫である。
 年上の五年級が、最後に静々と出払って、もうこれで忘れた花の一枝もない。四五人がちらほらと、式台へ出かかる中に、妙子が居た。
 阿嬢《おじょう》は、就中《なかんずく》活溌に、大形の紅入友染の袂《たもと》の端を、藤色の八ツ口から飜然《ひらり》と掉《ふ》って、何を急いだか飛下りるように、靴の尖《さき》を揃えて、トンと土間へ出た処へ、小使が一人ばたばたと草履|穿《ばき》で急いで来て、
「ああ酒井様。」
 と云う。優等生で、この容色《きりょう》であるから、寄宿舎へ出入《ではい》りの諸商人《しょあきんど》も知らぬ者は無いのに、別けて馴染《なじみ》の翁様《じいさま》ゆえ、いずれ菖蒲《あやめ》と引き煩らわずに名を呼んだ。
「ははい。」
 と振向くと、小使は小腰を屈《かが》めて、
「教頭様が少し御用がござります。」
「私に、」
「ちょっとお出で下さりまし。」
「あら、何でしょう、」
 と友達も、吃驚《びっくり》したような顔で※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すと、出口に一人、駒下駄《こまげた》を揃えて一人、一人は日傘を開け掛けて、その辺の辻まで一所に帰る、お定まりの道連《みちづれ》が、斉《ひと》しく三方からお妙の顔を瞻《みまも》って黙った。
 この段は、あらかじめ教頭が心得さしたか、翁様《じいさま》がまた、そこらの口が姦《かしまし》いと察した気転か。
「何か、お父様へ御託《おこと》づけものがござりますで。」
「まあ、そう、」
 と莞爾《にっこり》して、
「待ってて下すって?」と三人へ、一度に黒目勝なのを働して見せると、言合せた様に、二人まで、胸を撫で下して、ホホホと笑った――お腹が空いた――という事だそうである。
 お妙はずんずん小使について廊下を引返《ひっかえ》しながら、怒ったような顔をして、振向いて同じように胸の許《もと》を擦《さす》って見せた。
「応接|室《ま》でござりますわ。」
 教員室の前を通ると、背後《うしろ》むきで、丁寧に、風呂敷の皺《しわ》を伸《のば》して、何か包みかけていたのは習字の教師。向うに仰様《のけざま》に寝て、両肱《りょうひじ》を空に、後脳を引掴《ひッつか》むようにして椅子にかかっていたのは、数学の先生で。看護婦のような服装で、ちょうど声高に笑った婦《おんな》は、言わずとも、体操の師匠である。
 行きがかりに目についた、お妙は直ぐに俯目《ふしめ》になって、コトコト跫音《あしおと》が早くなった。階子段《はしごだん》の裏を抜けると、次の次の、応接室の扉《ドア》は、半開きになって、ペンキ塗の硝子戸入《がらすどいり》の、大書棚の前に、卓子《テイブル》に向って二三種新聞は見えたが、それではなしに、背文字の金の燦爛《さんらん》たる、新《あたらし》い洋書《ブック》の中ほどを開けて読む、天窓《あたま》の、てらてら光るのは、当女学校の教頭、倫理と英文学受持…の学士、宮畑閑耕。同じ文学士河野英吉の親友で、待合では世話になり、学校では世話をする(蝦茶《えびちゃ》と緋縮緬《ひぢりめん》の交換だ。)と主税が憤った一人である。
 この編の記者は、教頭氏、君に因って、男性を形容するに、留南奇《とめき》の薫|馥郁《ふくいく》としてと云う、創作的|文字《もんじ》をここに挟《さしはさ》み得ることを感謝しよう。勿論、その香《におい》の、二十世紀であるのは言うまでもない。
 お妙は、扉《ドア》に半身を隠して留まる。小使はそのまま向うへ行過ぎる。
 閑耕は、キラリ目金《めがね》を向けて、じろりと見ると、目を細うして、髯《ひげ》の尖《さき》をピンと立てた、頤《あご》が円い。
「こちらへ、」
 と鷹揚《おうよう》に云って、再び済まして書見に及ぶ。
 お妙は扉に附着《くッつ》いたなりで、入口を左へ立って、本の包みを抱いたまま、しとやかに会釈をしたが、あえてそれよりは進まなかった。
「こちらへ。」と無造作なように、今度は書見のまま声をかけたが、落着かれず、またひょいと目を上げると、その発奮《はずみ》で目金が躍る。
 頬桁《ほおげた》へ両手をぴったり、慌てて目金の柄を、鼻筋へ揉込《もみこ》むと、睫毛《まつげ》を圧《おさ》え込んで、驚いて、指の尖を潜《くぐ》らして、瞼《まぶた》を擦《こす》って、
「は、は、は、」と無意味な笑方をしたが、向直って真面目な顔で、
「どうですな。」

       四十七

 もう傍《そば》へ来そうなものと、閑耕教頭が再び、じろりと見ると、お妙は身動きもしないで、熟《じっ》と立っ
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