りきりなさいなね……とお蔦が歯痒《はがゆ》がる。
 勇を鼓して出掛けた日が、先生は、来客があって、お話中。玄関の書生が取次ぐ、と(この次、来い。)は、ぎょっとした。さりとて曲がない。内証《ないしょう》のお蔦の事、露顕にでも及んだかと、まさかとは思うが気怯《きおく》れがして、奥方にもちょいと挨拶をしたばかり。その挨拶を受けらるる時の奥方が、端然として針仕事の、気高い、奥床しい、懐《なつかし》い姿を見るにつけても、お蔦に思較べて、いよいよ後暗《うしろめた》さに、あとねだりをなさらないなら、久しぶりですから一銚子《ひとちょうし》、と莞爾《にっこり》して仰せある、優しい顔が、眩《まぶし》いように後退《しりごみ》して、いずれまた、と逃出すがごとく帰りしなに、お客は誰?……とそっと玄関の書生に当って見ると、坂田礼之進、噫《ああ》、止《やん》ぬる哉《かな》。
 しばらくは早瀬の家内、火の消えたるごとしで、憂慮《きづかわ》しさの余り、思切って、更に真砂町へ伺ったのが、すなわち薬師の縁日であったのである。
 ちと、恐怖《おずおず》の形で、先ず玄関を覗《のぞ》いて、書生が燈下に読書するのを見て、またお邪魔
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