んなに、お手間は取れますまい。」

       三

「だってお前、急に帰りそうもないじゃないか。」
 と云って、め[#「め」に傍点]組の蓋を払った盤台を差覗《さしのぞ》くと、鯛《たい》の濡色輝いて、広重の絵を見る風情、柳の影は映らぬが、河岸の朝の月影は、まだその鱗《うろこ》に消えないのである。
 俎板をポンと渡すと、目の下一尺の鮮紅《からくれない》、反《そり》を打って飜然《ひらり》と乗る。
 とろんこの目には似ず、キラリと出刃を真名箸《まなばし》の構《かまえ》に取って、
「刺身かい。」
「そうね、」
 とお蔦は、半纏の袖を合わせて、ちょっと傾く。
「焼きねえ、昨日も刺身だったから……」
 と腰を入れると腕の冴《さえ》、颯《さっ》と吹いて、鱗がぱらぱら。
「ついでに少々お焼きなさいますなぞもまた、へへへへへ、お宜《よろ》しゅうございましょう。御婦人のお客で、お二階じゃ大層お話が持てますそうでございますから。」
「憚様《はばかりさま》。お客は旦那様のお友達の母様《おっかさん》でございます。」
 め[#「め」に傍点]の字が鯛をおろす形は、いつ見てもしみじみ可い、と評判の手つきに見惚《みと
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