女中が、今しがたここから駈《か》け出して、玄関の来客を取次いだ草履が一ツ。ぞんざいに黒い裏を見せて引《ひっ》くり返っているのを、白い指でちょいと直し、素足に引懸《ひっか》け、がたり腰障子を左へ開けると、十時過ぎの太陽《ひ》が、向うの井戸端の、柳の上から斜《はす》っかけに、遍《あまね》く射込《さしこ》んで、俎《まないた》の上に揃えた、菠薐草《ほうれんそう》の根を、紅《くれない》に照らしたばかり。
多分はそれだろう、口真似《くちまね》をするのは、と当りをつけた御用聞きの酒屋の小僧は、どこにも隠れているのではなかった。
眉を顰《ひそ》めながら、その癖|恍惚《うっとり》した、迫らない顔色《かおつき》で、今度は口ずさむと言うよりもわざと試みにククと舌の尖《さき》で音を入れる。響に応じて、コロコロと行《や》ったが、こっちは一吹きで控えたのに、先方《さき》は発奮《はず》んだと見えて、コロコロコロ。
これを聞いて、屈《かが》んで、板へ敷く半纏《はんてん》の裙《すそ》を掻取《かいと》り、膝に挟んだ下交《したがい》の褄《つま》を内端《うちわ》に、障子腰から肩を乗出すようにして、つい目の前《さき》の、
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