に、と頭から遠慮をして、さて、先生は、と尋ねると、前刻御外出。奥様《おくさん》は、と云うと、少々御風邪の気味。それでは、お見舞に、と奥に入ろうとする縁側で、女中《おんな》が、唯今すやすやと御寐《おやすみ》になっていらっしゃいます、と云う。
 悄々《すごすご》玄関へ戻って、お嬢さんは、と取って置きの頼みの綱を引いて見ると、これは、以前奉公していた女中《おんな》で、四ッ谷の方へ縁附《かたづ》いたのが、一年ぶりで無沙汰見舞に来て、一晩御厄介になる筈《はず》で、お夜食が済むと、奥方の仰《おおせ》に因り、お嬢さんのお伴をして、薬師の縁日へ出たのであった。
 それでは私も通《とおり》の方を、いずれ後刻《のちほど》、とこれを機《しお》に。出しなにまた念のために、その後、坂田と云うのは来ませんか、と聞くと、アバ大人ですか、と書生は早や渾名を覚えた。ははは、来ましたよ。今日の午後《ひるすぎ》。


     男金女土

       二十八

 主税は、礼之進が早くも二度の魁《かけ》を働いたのに、少なからず機先を制せられたのと――かてて加えてお蔦の一件が暴露《ばれ》たために、先生が太《いた》く感情を損ねられて、わざとにもそうされるか、と思われないでもない――玄関の畳が冷く堅いような心持とに、屈託の腕を拱《こまぬ》いて、そこともなく横町から通りへ出て、件《くだん》の漬物屋の前を通ると、向う側がとある大構《おおがまえ》の邸の黒板塀で、この間しばらく、三方から縁日の空が取囲んで押揺《おしゆる》がすごとく、きらきらと星がきらめいて、それから富坂をかけて小石川の樹立《こだち》の梢《こずえ》へ暗くなる、ちょっと人足の途絶え処。
 東へ、西へ、と置場処の間数《けんすう》を示した標杙《くい》が仄白《ほのしろ》く立って、車は一台も無かった。真黒《まっくろ》な溝の縁に、野を焚《や》いた跡の湿ったかと見える破風呂敷《やぶれぶろしき》を開いて、式《かた》のごとき小灯《こともし》が、夏になってもこればかりは虫も寄るまい、明《あかり》の果敢《はかな》さ。三束《みたば》五束《いつたば》附木《つけぎ》を並べたのを前に置いて、手を支《つ》いて、縺《もつ》れ髪の頸《うなじ》清らかに、襟脚白く、女房がお辞儀をした、仰向けになって、踏反《ふんぞ》って、泣寐入《なきねい》りに寐入ったらしい嬰児《あかんぼ》が懐に、膝に縋《すが》って六歳《むッつ》ばかりの男の子が、指を銜《くわ》えながら往来をきょろきょろと視《なが》める背後《うしろ》に、母親のその背《せな》に凭《もた》れかかって、四歳《よッつ》ぐらいなのがもう一人。
 一陣《ひとしきり》風が吹くと、姿も店も吹き消されそうで哀《あわれ》な光景《ありさま》。浮世の影絵が鬼の手の機関《からくり》で、月なき辻へ映るのである。
 さりながら、縁日の神仏は、賽銭《さいせん》の降る中ならず、かかる処にこそ、影向《ようごう》して、露にな濡れそ、夜風に堪えよ、と母子《おやこ》の上に袖笠して、遠音に観世ものの囃子《はやし》の声を打聞かせたまうらんよ。
 健在《すこやか》なれ、御身等、今若、牛若、生立《おいた》てよ、と窃《ひそか》に河野の一門を呪《のろ》って、主税は袂《たもと》から戛然《かちり》と音する松の葉を投げて、足|疾《と》くその前を通り過ぎた。
 ふと例の煙草屋の金歯の亭主が、箱火鉢を前に、胸を反らせて、煙管《きせる》を逆に吹口でぴたり戸外《おもて》を指して、ニヤリと笑ったのが目に附くと同時に、四五人|店前《みせさき》を塞いだ書生が、こなたを見向いて、八の字が崩れ、九の字が分れたかと一同に立騒いで、よう、と声を懸ける、万歳、と云う、叱《しっ》、と圧《おさ》えた者がある。
 向うの真砂町の原は、真中あたり、火定の済んだ跡のように、寂しく中空へ立つ火気を包んで、黒く輪になって人集《ひとだか》り。寂寞《ひっそり》したその原のへりを、この時通りかかった女が二人。
 主税は一目見て、胸が騒いだ。右の方のが、お妙である。
 リボンも顔も単《ひとえ》に白く、かすりの羽織が夜の艶《つや》に、ちらちらと蝶が行交う歩行《あるき》ぶり、紅《くれない》ちらめく袖は長いが、不断着の姿は、年も二ツ三ツ長《た》けて大人びて、愛らしいよりも艶麗《あでやか》であった。
 風呂敷包を左手《ゆんで》に載せて、左の方へ附いたのは、大一番の円髷《まるまげ》だけれども、花簪《はなかんざし》の下になって、脊が低い。渾名を鮹《たこ》と云って、ちょんぼりと目の丸い、額に見上げ皺《じわ》の夥多《おびただ》しい婦《おんな》で、主税が玄関に居た頃勤めた女中《おさん》どん。
 心懸けの好《い》い、実体《じってい》もので、身が定まってからも、こうした御機嫌うかがいに出る志。お主《しゅう》の娘に引添《ひっそ》うて
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