さあ、どうぞ、と先方《さき》は編上靴《あみあげぐつ》で手間が取れる。主税は気早に靴を脱いで、癇癪紛《かんしゃくまぎれ》に、突然二階へ懸上る。段の下の扉《ひらき》の蔭から、そりゃこそ旦那様。と、にょっと出た、お源を見ると、取次に出ないも道理、勝手働きの玉襷《たまだすき》、長刀《なぎなた》小脇に掻込《かいこ》んだりな。高箒《たかぼうき》に手拭《てぬぐい》を被《かぶ》せたのを、柄長に構えて、逆上《のぼ》せた顔色《がんしょく》。
 馬鹿め、と噴出《ふきだ》して飛上る後から、ややあって、道学先生、のそりのそり。
 二階の論判《ろッぱん》一時《ひととき》に余りけるほどに、雷様の時の用心の線香を芬《ふん》とさせ、居間から顕《あら》われたのはお蔦で、艾《もぐさ》はないが、禁厭《まじない》は心ゆかし、片手に煙草を一撮《ひとつまみ》。抜足で玄関へ出て、礼之進の靴の中へ。この燃草《もえぐさ》は利《きき》が可かった。※[#「火+發」、91−4]《ぱっ》と煙が、むらむらと立つ狼煙《のろし》を合図に、二階から降りる気勢《けはい》。飜然《ひらり》路地へお蔦が遁込《にげこ》むと、まだその煙は消えないので、雑水《ぞうみず》を撒《ま》きかけてこの一芸に見惚れたお源が、さしったりと、手でしゃくって、ざぶりと掛けると、おかしな皮の臭がして、そこら中水だらけ。

       二十七

 それ熟々《つらつら》、史を按《あん》ずるに、城なり、陣所、戦場なり、軍《いくさ》は婦《おんな》の出る方が大概|敗《ま》ける。この日、道学先生に対する語学者は勝利でなく、礼之進の靴は名誉の負傷で、揚々と引挙げた。
 ゆえ如何《いかん》となれば、お厭《いや》とあれば最早紹介は求めますまい、そのかわりには、当方から酒井家へ申入れまする、この縁談に就きまして、貴方《あなた》から先生に向って、河野に対する御非難をなされぬよう。御意見は御意見、感情問題は別として、これだけはお願い申したいでごわりまするが、と婉曲に言いは言ったが、露骨に遣《や》ったら、邪魔をする勿《なかれ》であるから、御懸念無用と、男らしく判然《はっきり》答えたは可いけれども、要するに釘を刺されたのであった。
 礼之進の方でも、酒井へ出入りの車夫《くるまや》まで捜《さぐり》を入れた程だから、その分は随分手が廻って、従って、先生が主税に対する信用の点も、情愛のほども、子のごとく、弟のごときものであることさえ分ったので、先んずれば人を制すで、ぴたりとその口を圧《おさ》えたのであろう。
 讒口《なかぐち》は決して利かない、と早瀬は自分も言ったが、またこの門生の口一ツで、見事、纏《まとま》る縁も破ることは出来たのだったに。
 ここで賽《さい》は河野の手に在矣《ありい》。ともかくもソレ勝負、丁か半かは酒井家の意志の存する処に因るのみとぞなんぬる。
 先生が不承知を言えばだけれども、諾、とあればそれまで。お妙は河野英吉の妻になるのである。河野英吉の妻にお妙がなるのであるか。
 お蔦さえ、憂慮《きづか》うよりむしろ口惜《くやし》がって、ヤイヤイ騒ぐから、主税の、とつおいつは一通りではない。何は措《おい》ても、余所《よそ》ながら真砂町の様子を、と思うと、元来お蔦あるために、何となく疵《きず》持足、思いなしで敷居が高い。
 で何となく遠のいて、ようよう二日前に、久しぶりで御機嫌|窺《うかが》いに出た処、悪くすると、もう礼之進が出向いて、縁談が始まっていそうな中へ、急に足近くは我ながら気が咎める。
 愚図々々《ぐずぐず》すれば、貴郎《あなた》例《いつも》に似合わない、きりきりなさいなね……とお蔦が歯痒《はがゆ》がる。
 勇を鼓して出掛けた日が、先生は、来客があって、お話中。玄関の書生が取次ぐ、と(この次、来い。)は、ぎょっとした。さりとて曲がない。内証《ないしょう》のお蔦の事、露顕にでも及んだかと、まさかとは思うが気怯《きおく》れがして、奥方にもちょいと挨拶をしたばかり。その挨拶を受けらるる時の奥方が、端然として針仕事の、気高い、奥床しい、懐《なつかし》い姿を見るにつけても、お蔦に思較べて、いよいよ後暗《うしろめた》さに、あとねだりをなさらないなら、久しぶりですから一銚子《ひとちょうし》、と莞爾《にっこり》して仰せある、優しい顔が、眩《まぶし》いように後退《しりごみ》して、いずれまた、と逃出すがごとく帰りしなに、お客は誰?……とそっと玄関の書生に当って見ると、坂田礼之進、噫《ああ》、止《やん》ぬる哉《かな》。
 しばらくは早瀬の家内、火の消えたるごとしで、憂慮《きづかわ》しさの余り、思切って、更に真砂町へ伺ったのが、すなわち薬師の縁日であったのである。
 ちと、恐怖《おずおず》の形で、先ず玄関を覗《のぞ》いて、書生が燈下に読書するのを見て、またお邪魔
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