婦系図
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)美《うつくし》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一段|下流《しもながし》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]
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     鯛、比目魚

       一

 素顔に口紅で美《うつくし》いから、その色に紛《まが》うけれども、可愛い音《ね》は、唇が鳴るのではない。お蔦《つた》は、皓歯《しらは》に酸漿《ほおずき》を含んでいる。……
「早瀬の細君《レコ》はちょうど(二十《はたち》)と見えるが三だとサ、その年紀《とし》で酸漿を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、」と四辺《あたり》近所は官員《つとめにん》の多い、屋敷町の夫人《おくさま》連が風説《うわさ》をする。
 すでに昨夜《ゆうべ》も、神楽坂の縁日に、桜草を買ったついでに、可《い》いのを撰《よ》って、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家《となり》の娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! と刎《は》ねられて、利いた風な、と口惜《くやし》がった。
 面当《つらあ》てというでもあるまい。あたかもその隣家《となり》の娘の居間と、垣一ツ隔てたこの台所、腰障子の際に、懐手で佇《たたず》んで、何だか所在なさそうに、しきりに酸漿を鳴らしていたが、ふと銀杏返《いちょうがえ》しのほつれた鬢《びん》を傾けて、目をぱっちりと開けて何かを聞澄ますようにした。
 コロコロコロコロ、クウクウコロコロと声がする。唇の鳴るのに連れて。
 ちょいと吹留《ふきや》むと、今は寂寞《しん》として、その声が止まって、ぼッと腰障子へ暖う春の日は当るが、軒を伝う猫も居《お》らず、雀の影もささぬ。
 鼠かと思ったそうで、斜《ななめ》に棚の上を見遣《みや》ったが、鍋も重箱もかたりとも云わず、古新聞がまたがさりともせぬ。
 四辺《あたり》を見ながら、うっかり酸漿に歯が触る。とその幽《かすか》な音《ね》にも直ちに応じて、コロコロ。少し心着いて、続けざまに吹いて見れば、透かさずクウクウ、調子を合わせる。
 聞き定めて、
「おや、」と云って、一段|下流《しもながし》の板敷へ下りると、お源と云う女中が、今しがたここから駈《か》け出して、玄関の来客を取次いだ草履が一ツ。ぞんざいに黒い裏を見せて引《ひっ》くり返っているのを、白い指でちょいと直し、素足に引懸《ひっか》け、がたり腰障子を左へ開けると、十時過ぎの太陽《ひ》が、向うの井戸端の、柳の上から斜《はす》っかけに、遍《あまね》く射込《さしこ》んで、俎《まないた》の上に揃えた、菠薐草《ほうれんそう》の根を、紅《くれない》に照らしたばかり。
 多分はそれだろう、口真似《くちまね》をするのは、と当りをつけた御用聞きの酒屋の小僧は、どこにも隠れているのではなかった。
 眉を顰《ひそ》めながら、その癖|恍惚《うっとり》した、迫らない顔色《かおつき》で、今度は口ずさむと言うよりもわざと試みにククと舌の尖《さき》で音を入れる。響に応じて、コロコロと行《や》ったが、こっちは一吹きで控えたのに、先方《さき》は発奮《はず》んだと見えて、コロコロコロ。
 これを聞いて、屈《かが》んで、板へ敷く半纏《はんてん》の裙《すそ》を掻取《かいと》り、膝に挟んだ下交《したがい》の褄《つま》を内端《うちわ》に、障子腰から肩を乗出すようにして、つい目の前《さき》の、下水の溜りに目を着けた。
 もとより、溝板《どぶいた》の蓋《ふた》があるから、ものの形は見えぬけれども、優《やさし》い連弾《つれびき》はまさしくその中。
 笑《えみ》を含んで、クウクウと吹き鳴らすと、コロコロと拍子を揃えて、近づいただけ音を高く、調子が冴えてカタカタカタ!
「蛙だね。」
 と莞爾《にっこり》した、その唇の紅を染めたように、酸漿を指に取って、衣紋《えもん》を軽《かろ》く拊《う》ちながら、
「憎らしい、お源や…………」
 来て御覧、と呼ぼうとして、声が出たのを、圧《おさ》えて酸漿をまた吸った。
 ククと吹く、カタカタ、ククと吹く、カタカタ、蝶々の羽で三味線《さみせん》の胴をうつかと思われつつ、静かに長《た》くる春の日や、お蔦の袖に二三寸。
「おう、」と突込《つっこ》んで長く引いた、遠くから威勢の可《い》い声。
 来たのは江戸前の魚屋で。

       二

 ここへ、台所と居間の隔てを開け、茶菓子を運んで、二階から下りたお源という、小柄《こがら》の可《い》い島田の女中が、逆上《のぼ》せたような顔色《かおつき》で、
「奥様、魚屋が参りました。」
「大きな声をおしでないよ。」
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