とお蔦は振向いて低声《こごえ》で嗜《たしな》め、お源が背後《うしろ》から通るように、身を開きながら、
「聞こえるじゃないか。」
目配せをすると、お源は莞爾《にっこり》して俯向《うつむ》いたが、ほんのり紅《あか》くした顔を勝手口から外へ出して路地の中《うち》を目迎える。
「奥様《おくさん》は?」
とその顔へ、打着《ぶつ》けるように声を懸けた。またこれがその(おう。)の調子で響いたので、お源が気を揉《も》んで、手を振って圧《おさ》えた処へ、盤台《はんだい》を肩にぬいと立った魚屋は、渾名《あだな》を(め[#「め」に傍点]組)と称《とな》える、名代の芝ッ児《こ》。
半纏は薄汚れ、腹掛の色が褪《あ》せ、三尺が捻《ね》じくれて、股引《ももひき》は縮んだ、が、盤台は美《うつくし》い。
いつもの向顱巻《むこうはちまき》が、四五日陽気がほかほかするので、ひしゃげ帽子を蓮の葉かぶり、ちっとも涼しそうには見えぬ。例によって飲《き》こしめした、朝から赤ら顔の、とろんとした目で、お蔦がそこに居るのを見て、
「おいでなさい、奥様《おくさん》、へへへへへ。」
「お止《よ》しってば、気障《きざ》じゃないか。お源もまた、」
と指の尖《さき》で、鬢《びん》をちょいと掻《か》きながら、袖を女中の肩に当てて、
「お前もやっぱり言うんだもの、半纏着た奥様《おくさん》が、江戸に在るものかね。」
「だって、ねえ、め[#「め」に傍点]のさん。」
とお源は袖を擦抜けて、俎板《まないた》の前へ蹲《しゃが》む。
「それじゃ御新造《ごしんぞ》かね。」
「そんなお銭《あし》はありやしないわ。」
「じゃ、おかみさん。」
「あいよ。」
「へッ、」
と一ツ胸でしゃくって笑いながら、盤台を下ろして、天秤《てんびん》を立掛ける時、菠薐草を揃えている、お源の背《せな》を上から見て、
「相かわらず大《おおき》な尻だぜ、台所充満《だいどこいっぱい》だ。串戯《じょうだん》じゃねえ。目量《めかた》にしたら、およそどのくれえ掛るだろう。」
「お前さんの圧《おし》ぐらい掛ります。」
「ああいう口だ。はははは、奥さんのお仕込みだろう。」
「め[#「め」に傍点]の字、」
「ええ、」
「二階にお客さまが居るじゃないか、奥様《おくさん》はおよしと言うのにね。」
「おっと、そうか、」
ぺろぺろと舌を吸って、
「何だって、日蔭ものにして置くだろう、こんな実のある、気前の可《い》い……」
「値切らない、」
「ほんによ、所帯持の可い姉さんを。分らない旦《だん》じゃねえか。」
「可いよ。私が承知しているんだから、」
と眦《まなじり》の切れたのを伏目になって、お蔦は襟に頤《おとがい》をつけたが、慎ましく、しおらしく、且つ湿《しめ》やかに見えたので、め[#「め」に傍点]組もおとなしく頷《うなず》いた。
お源が横向きに口を出して、
「何があるの。」
「へ、野暮な事を聞くもんだ。相変らず旨《うめ》えものを食《くわ》してやるのよ。黙って入物を出しねえな。」
「はい、はい、どうせ無代価《ただ》で頂戴いたしますものでございます。め[#「め」に傍点]のさんのお魚は、現金にも月末《つきずえ》にも、ついぞ、お代をお取り遊ばしたことはございません。」
「皮肉を言うぜ。何てったって、お前はどうせ無代価で頂くもんじゃねえか。」
「大きに、お世話、御主人様から頂きます。」
「あれ、見や、島田を揺《ゆすぶ》ってら。」
「ちょいと、番ごといがみあっていないでさ。お源や、お客様に御飯が出そうかい。」
「いかがでございますか、婦人《おんな》の方ですから、そんなに、お手間は取れますまい。」
三
「だってお前、急に帰りそうもないじゃないか。」
と云って、め[#「め」に傍点]組の蓋を払った盤台を差覗《さしのぞ》くと、鯛《たい》の濡色輝いて、広重の絵を見る風情、柳の影は映らぬが、河岸の朝の月影は、まだその鱗《うろこ》に消えないのである。
俎板をポンと渡すと、目の下一尺の鮮紅《からくれない》、反《そり》を打って飜然《ひらり》と乗る。
とろんこの目には似ず、キラリと出刃を真名箸《まなばし》の構《かまえ》に取って、
「刺身かい。」
「そうね、」
とお蔦は、半纏の袖を合わせて、ちょっと傾く。
「焼きねえ、昨日も刺身だったから……」
と腰を入れると腕の冴《さえ》、颯《さっ》と吹いて、鱗がぱらぱら。
「ついでに少々お焼きなさいますなぞもまた、へへへへへ、お宜《よろ》しゅうございましょう。御婦人のお客で、お二階じゃ大層お話が持てますそうでございますから。」
「憚様《はばかりさま》。お客は旦那様のお友達の母様《おっかさん》でございます。」
め[#「め」に傍点]の字が鯛をおろす形は、いつ見てもしみじみ可い、と評判の手つきに見惚《みと
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