》れながら、お源が引取って口を入れる。
えらを一突き、ぐいと放して、
「凹《へこ》んだな。いつかの新ぎれじゃねえけれど、め[#「め」に傍点]の公塩が廻り過ぎたい。」
「そういや、め[#「め」に傍点]の字、」
とお蔦は片手を懐に、するりと辷《すべ》る黒繻子《くろじゅす》の襟を引いて、
「過日《このあいだ》頼んだ、河野《こうの》さん許《とこ》へ、その後《のち》廻ってくれないッて言うじゃないか、どうしたの?」
「むむ、河野ッて。何かい、あの南町のお邸《やしき》かい。」
「ああ、なぜか、魚屋が来ないッて、昨日《きのう》も内へ来て、旦那にそう言っていなすったよ。行かないの、」
「行かねえ。」
「ほんとうに、」
「行きませんとも!」
「なぜさ、」
「なぜッて、お前《めえ》、あん獣《けだもの》ア、」
お源が慌《あわただ》しく、
「め[#「め」に傍点]のさん、」
「何だ。」
「め[#「め」に傍点]のさんや。お前さんちょいと、お二階に来ていらっしゃるのはその河野さんの母様《おっかさん》じゃないか、気をお着けな。」
帽子をすっぽり亀の子|竦《すく》みで、
「ホイ阿陀仏《おだぶつ》、へい、あすこにゃ隠居ばかりだと思ったら……」
「いいえね、つい一昨日《おととい》あたり故郷《おくに》の静岡からおいでなすったんですとさ。私がお取次に出たら河野の母でございます、とおっしゃったわ。」
「だから、母様が見えたのに、おいしいものが無いッて、河野さんが言っていなすったのさ、お前、」
「おいしいものが聞いて呆れら。へい、そして静岡だってね。」
「ああ、」
「と御維新|以来《このかた》、江戸児《えどッこ》の親分の、慶喜様が行っていた処だ。第一かく申すめ[#「め」に傍点]の公も、江戸城を明渡しの、落人《おちうど》を極《き》めた時分、二年越居た事がありますぜ。
馬鹿にしねえ、大親分が居て、それから私《わっし》が居た土地だ。大概《てえげい》江戸ッ児になってそうなもんだに、またどうして、あんな獣が居るんだろう。
聞きねえ。
過日《こないだ》もね、お前《めえ》、まったくはお前、一軒かけ離れて、あすこへ行《ゆ》くのは荷なんだけれども、ちとポカと来たし、佳《い》い魚《うお》がなくッて困るッて言いなさる、廻ってお上げ、とお前さんが口を利くから、チョッ蔦ちゃんの言うこッた。
脛《すね》を達引《たてひ》け、と二三度行ったわ。何じゃねえか、一度お前《めえ》、おう、先公、居るかいッて、景気に呼んだと思いねえ。」
お蔦は莞爾《にっこり》して、
「せんこう[#「せんこう」に傍点]ッて誰のこったね。」
「内の、お友達よ。河野さんは、学士だとか、学者だとか、先生だとか言うこッたから、一ツ奉って呼んだのよ。」
と鰭《ひれ》をばっさり。
四
「可《い》いじゃねえか、お前《めえ》、先公だから先公よ。何も野郎とも兄弟《きょうでえ》とも言ったわけじゃねえ。」
と庖丁の尖《さき》を危く辷《すべ》らして、鼻の下を引擦《ひっこす》って、
「すると何だ。肥満《ふとっちょ》のお三どんが、ぶっちょう面をしゃあがって、旦那様とか、先生とかお言いなさい、御近所へ聞えます、と吐《ぬか》しただろうじゃねえか。
ええ、そんなに奉られたけりゃ三太夫でも抱えれば可い。口に税を出すくらいなら、憚《はばか》んながら私《わっし》あ酒も啖《くら》わなけりゃ魚も売らねえ。お源ちゃんの前《めえ》だけれども。おっとこうした処は、お尻の方だ。」
「そんなに、お邪魔なら退《ど》けますよ。」
お源が俎板を直して向直る。と面《おもて》を合わせて、
「はははははは、今日《こんち》あ、」
「何かい、それで腹を立って行《ゆ》かないのかい。」
「そこはお前さんに免じて肝《かん》の虫を圧《おさ》えつけた。翌日《あくるひ》も廻ったがね、今度は言種《いいぐさ》がなお気に食わねえ。
今日はもうお菜《かず》が出来たから要らないよサ。合点《がってん》なるめえじゃねえか。私《わっし》が商う魚だって、品に因っちゃ好嫌《すききれ》えは当然《あたりめえ》だ。ものを見てよ、その上で欲しくなきゃ止すが可い。喰いたくもねえものを勿体《もってえ》ねえ、お附合いに買うにゃ当りやせん、食もたれの※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》なんぞで、せせり箸をされた日にゃ、第一|魚《うお》が可哀相だ。
こっちはお前《めえ》、河岸で一番首を討取る気組みで、佳いものを仕入れてよ、一ツおいしく食わせてやろうと、汗みずくで駈附けるんだ。醜女《すべた》が情人《いろ》を探しはしめえし、もう出来たよで断られちゃ、間尺に合うもんじゃねえ。ね、蔦ちゃんの前だけれど、」
「今度は私が背後《うしろ》を向こうか。」
とお蔦は、下に居る女中の上から、向うの棚へ手を
前へ
次へ
全107ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング