伸ばして、摺鉢《すりばち》に伏せた目笊《めざる》を取る。
「そらよ、こっちが旦《だん》の分。こりゃお源坊のだ。奥様《おくさん》はあら[#「あら」に傍点]が可い、煮るとも潮《うしお》にするともして、天窓《あたま》を噛《かじ》りの、目球《めだま》をつるりだ。」
「私は天窓を噛るのかい。」
 お蔦は莞爾《にっこり》して、め[#「め」に傍点]組にその笊を持たせながら、指の尖で、涼しい鯛の目をちょいと当る。
「ワンワンに言うようだわ、何だねえ、失礼な。」
 とお源は柄杓《ひしゃく》で、がたりと手桶《ておけ》の底を汲《く》む。
「田舎ものめ、河野の邸へ鞍替《くらがえ》しろ、朝飯に牛《ぎゅう》はあっても、鯛《てえ》の目を食った犬は昔から江戸にゃ無えんだ。」
「はい、はい、」
 手桶を引立《ひった》てて、お源は腰を切って、出て、溝板《どぶいた》を下駄で鳴らす。
「あれ、邪険にお踏みでない。私の情人《いろ》が居るんだから。」
「情人がね。」
「へい、」
 と言ったばかり、こっちは忙がしい顔色《かおつき》で、女中は聞棄てにして、井戸端へかたかた行く。
「溝《みぞ》の中に、はてな。」
 印半纏《しるしばんてん》の腰を落して、溝板を見当に指《ゆびさ》しながら、ひしゃげた帽子をくるりと廻わして、
「変ってますね。」
「見せようか。」
「是非お目に懸《かか》りてえね。」
「お待ちよ、」
 と目笊は流《ながし》へ。お蔦は立直って腰障子へ手をかけたが、溝《どぶ》の上に背伸をして、今度は気構えて勿体らしく酸漿《ほおずき》をクウと鳴らすと、言合せたようにコロコロコロ。
「ね、可愛いだろう。」
 カタカタカタ!
「蛙《けえろ》だ、蛙だ。はははは、こいつア可い。なるほど蔦ちゃんの情人かも知れねえ。」
「朧月夜《おぼろづきよ》の色なんだよ。」
 得意らしく済ました顔は、柳に対して花やかである。
「畜生め、拝んでやれ。」
 と好事《ものずき》に蹲込《しゃがみこ》んで、溝板を取ろうとする、め[#「め」に傍点]組は手品の玉手箱の蓋《ふた》を開ける手つきなり。
「お止しよ、遁《に》げるから、」
 と言う処へ、しとやかに、階子段《はしごだん》を下りる音。トタンに井戸端で、ざあと鳴ったは、柳の枝に風ならず、長閑《のどか》に釣瓶《つるべ》を覆《かえ》したのである。


     見知越

       五

 続いてドンドン粗略《ぞんざい》に下りたのは、名を主税《ちから》という、当家、早瀬の主人で、直ぐに玄関に声が聞える。
「失礼、河野さんに……また……お遊びに。さようなら。……」
 格子戸の音がしたのは、客が外へ出たのである。その時、お蔦の留めるのも聞かないで、溝《どぶ》なる連弾《つれびき》を見届けようと、やにわにその蓋を払っため[#「め」に傍点]組は、蛙の形も認めない先に、お蔦がすっと身を退《ひ》いて、腰障子の蔭へ立隠れをしたので、ああ、落人でもないに気の毒だ、と思って、客はどんな人間だろうと、格子から今出た処を透かして見る。とそこで一つ腰を屈《かが》めて、立直った束髪は、前刻《さっき》から風説《うわさ》のあった、河野の母親と云う女性《にょしょう》。
 黒の紋羽二重の紋着《もんつき》羽織、ちと丈の長いのを襟を詰めた後姿。忰《せがれ》が学士だ先生だというのでも、大略《あらまし》知れた年紀《とし》は争われず、髪は薄いが、櫛にてらてらと艶《つや》が見えた。
 背は高いが、小肥《こぶとり》に肥った肩のやや怒ったのは、妙齢《としごろ》には御難だけれども、この位な年配で、服装《みなり》が可いと威が備わる。それに焦茶の肩掛《ショオル》をしたのは、今日あたりの陽気にはいささかお荷物だろうと思われるが、これも近頃は身躾《みだしなみ》の一ツで、貴婦人《あなた》方は、菖蒲《あやめ》が過ぎても遊ばさるる。
 直ぐに御歩行《おはこび》かと思うと、まだそれから両手へ手袋を嵌《は》めたが、念入りに片手ずつ手首へぐっと扱《しご》いた時、襦袢《じゅばん》の裏の紅いのがチラリと翻《かえ》る。
 年紀《とし》のほどを心づもりに知っため[#「め」に傍点]組は、そのちらちらを一目見ると、や、火の粉が飛んだように、へッと頸《うなじ》を窘《すく》めた処へ、
「まだ、花道かい?」
 とお蔦が低声《こごえ》。
「附際《つけぎわ》々々、」
 ともう一息め[#「め」に傍点]組の首を縮《すく》める時、先方《さき》は格子戸に立かけた蝙蝠傘《こうもりがさ》を手に取って、またぞろ会釈がある。
「思入れ沢山《だくさん》だ。いよう!」
 おっとその口を塞いだ。声はもとより聞えまいが、こなたに人の居るは知れたろう。
 振返って、額の広い、鼻筋の通った顔で、屹《きっ》と見越した、目が光って、そのまま悠々と路地を町へ。――勿論勝手口は通らぬのである
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