それまでである。けれども、渠《かれ》は目下誰かの縁談に就いて、配慮しつつあるのではないか。しかも開けて見ている処が――夫婦相性の事――は棄置かれぬ。
且つその顔色《かおつき》が、紋附の羽織で、※[#「ころもへん+施のつくり」、第3水準1−91−72]《ふき》の厚い内君《マダム》と、水兵服の坊やを連れて、別に一人抱いて、鮨にしようか、汁粉にしようか、と歩行《てく》っている紳士のような、平和な、楽しげなものではなく、主税は何か、思い屈した、沈んだ、憂わしげな色が見える。
好男子世に処して、屈託そうな面色《おももち》で、露店の三世相を繰るとなると、柳の下に掌《てのひら》を見せる、八卦の亡者と大差はない、迷いはむしろそれ以上である。
所以《ゆえ》ある哉《かな》、主税のその面上の雲は、河野英吉と床の間の矢車草……お妙の花を争った時から、早やその影が懸ったのであった。その時はお蔦の機知《さそく》で、柔|能《よ》く強《ごう》を制することを得たのだから、例《いつも》なら、いや、女房は持つべきものだ、と差対《さしむか》いで祝杯を挙げかねないのが、冴えない顔をしながら、湯は込んでいたか、と聞いて、フイと出掛けた様子も、その縁談を聞いた耳を、水道の水で洗わんと欲する趣があった。
本来だと、朋友《ともだち》が先生の令嬢を娶《めと》りたいに就いて、下聴《したぎき》に来たものを、聞かせない、と云うも依怙地《いこじ》なり、料簡《りょうけん》の狭い話。二才らしくまた何も、娘がくれた花だといって、人に惜むにも当らない。この筆法をもってすれば、情婦《いろ》から来た文殻《ふみがら》が紛込《まぎれこ》んだというので、紙屑買を追懸《おっか》けて、慌てて盗賊《どろぼう》と怒鳴り兼ねまい。こちの人|措《お》いて下さんせ、と洒落《しゃれ》にも嗜《たしな》めてしかるべき者までが、その折から、ちょいと留女の格で早瀬に花を持《もた》せたのでも、河野|一家《いっけ》に対しては、お蔦さえ、如何《いかん》の感情を持つかが明かに解る。
それは英吉と、内の人の結婚に対する意見の衝突の次第を、襖の蔭で聴取ったせいもあろう。
そうでなくっても、惚れそうな芸妓《げいしゃ》はないか。新学士に是非と云って、達引《たてひ》きそうな朋輩はないか、と煩《うるさ》く尋ねるような英吉に、厭《いや》なこった、良人《うちの》が手を支《つ》いてものを言う大切なお嬢さんを、とお蔦はただそれだけでさえ引退《ひっさが》る。処へ、幾条《いくすじ》も幾条も家《うち》中の縁の糸は両親で元緊《もとじめ》をして、颯《さっ》さらりと鵜縄《うなわ》に捌《さば》いて、娘たちに浮世の波を潜《くぐ》らせて、ここを先途と鮎《あゆ》を呑ませて、ぐッと手許へ引手繰《ひったぐ》っては、咽喉《のど》をギュウの、獲物を占め、一門一家《いちもんいっけ》の繁昌を企むような、ソンな勘作の許《とこ》へお嬢さんを嫁《や》られるもんか。
いいえ、私が肯《き》かないわ、とお源をつかまえて談ずる処へ、熱《い》い湯だった、といくらか気色を直して、がたひし、と帰って来た主税に、ちょいとお前さん、大丈夫なんですか、とお蔦の方が念を入れたほどの勢《いきおい》。
二十三
何が大丈夫だか、主税には唐突《だしぬけ》で、即座には合点《がってん》しかねるばかり、お蔦の方の意気込が凄《すさま》じい。
まだ、取留めた話ではなし、ただ学校で見初めた、と厭らしく云う。それも、恋には丸木橋を渡って落ちてこそしかるべきを、石の橋を叩いて、杖《ステッキ》を支《つ》いて渡ろうとする縁談だから、そこいら聴合わせて歩行《ある》く中《うち》に、誰かの口で水を注《さ》せば、直ぐに川留めの洪水ほどに目を廻わしてお流れになるだろう。
けれども、なぜか、母子連《おやこづれ》で学校へ観に行った、と聞いただけで、お妙さんを観世物《みせもの》にし、またされたようで癪《しゃく》に障った。しかし物にはなるまいよ、と主税が落着くと、いいえ、私は心配です。どこをどう聞き廻ったって、あのお嬢さんに難癖を着けるものはありません。いずれ真砂町|様《さん》へ言入れるに違いますまい。それに河野と云う人が、他に取柄は無いけれど、ただ頼もしいのが押の強いことなんですから、一押二押で、悪くすると出来ますよ。出来るような気がしてならない。私は何だかもうお妙さんが、ぺろぺろと嘗《な》められる夢を見て、今夜にも寝ていて魘《うな》されそうで、お可哀相でなりません。貴郎《あなた》油断をしちゃ厭ですよ、と云った――お蔦の方が、その晩毛虫に附着《くッつ》かれた夢を見た。いつも河野のその眉が似ていると思ったから。――
もっとも河野は、綺麗に細眉にしていたが、剃りづけませぬよう、と父様の命令で、近頃太くしているので、毛虫で
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