はない、臥蚕《がさん》である。しかるにこの不生産的の美人は、蚕の世を利するを知らずして、毛虫の厭《いと》うべきを恐れていた、不心得と言わねばならぬ。
 で、お蔦は、たとい貴郎が、その癖、内々お妙さんに岡惚《おかぼれ》をしているのでも可い。河野に添わせるくらいなら、貴郎の令夫人《おくさん》にして私が追出《おんだ》される方がいっそ増だ、とまで極端に排斥する。
 この異体同心の無二の味方を得て、主税も何となく頼母《たのも》しかったが、さて風はどこを吹いていたか、半月ばかりは、英吉も例《いつも》になく顔を見せなかった。
 と一日《あるひ》、
(早瀬氏は居《お》らるるかね。)
 応柄《おうへい》のような、そうかと云って間違いの無いような訪ずれ方をして、お源に名刺を取次がせた者がある。
 主税は、しかかっていた翻訳の筆《ペン》を留めて、請取って見ると、ちょっと心当りが無かったが、どんな人だ、と聞くと、あの、痘痕《あばた》のおあんなさいます、と一番|疾《はや》く目についた人相を言ったので、直ぐ分った。
 本名坂田礼之進、通り名をアバ大人、誰か早口な男がタの字を落した。ゆっくり言えばアバタ大人、どちらでもよく通る。通りが可《よ》ければと言って、渾名《あだな》を名刺に書くものはない。手札は立派に、坂田礼之進……傍《かたわら》へ羅馬《ロオマ》字で、L. Sakata.
 すなわち歴々の道学者先生である。
 渠《かれ》の道学は、宗教的ではない、倫理的、むしろ男女交際的である。とともに、その痘痕《あばた》と、細君が若うして且つ美であるのをもって、処々の講堂においても、演説会においても、音に聞えた君子である。
 謂《い》うまでもなく道徳円満、ただしその細君は三度目で、前《さき》の二人とも若死をして、目下《いま》のがまた顔色が近来、蒼《あお》い。
 と云ってあえて君子の徳を傷《きずつ》けるのではない、が、要のないお饒舌《しゃべり》をするわけではない。大人は、自分には二度まで夫人を殺しただけ、盞《さかずき》の数の三々九度、三度の松風、ささんざの二十七度で、婚姻の事には馴れてござる。
 処へ、名にし負う道学者と来て、天下この位信用すべき媒妁人《なこうど》は少いから、呉《ご》も越《えつ》も隔てなく口を利いて巧《うま》く纏《まと》める。従うて諸家の閨門《けいもん》に出入すること頻繁にして時々厭らしい! と云う風説《うわさ》を聞く。その袖を曳《ひ》いたり、手を握ったりするのが、いわゆる男女交際的で、この男の余徳《ほまち》であろう。もっとも出来た験《ためし》はない。蓋《けだ》しせざるにあらず能《あた》わざるなりでも何でも、道徳は堅固で通る。於爰乎《ここにおいてか》、品行方正、御媒妁人《おなこうど》でも食って行《ゆ》かれる……

       二十四

 道学先生の、その坂田礼之進であるから、少くともめ[#「め」に傍点]組が出入りをするような家庭? へ顔出しをする筈《はず》がない。と一度《ひとたび》は怪《あやし》んだが、偶然《ふと》河野の叔父に、同一《おなじ》道学者|何某《なにがし》の有るのに心付いて、主税は思わず眉を寄せた。
 諸家お出入りの媒妁人、ある意味における地者稼《じものかせぎ》の冠たる大家、さては、と早やお妙の事が胸に応えて、先ずともかくも二階へ通すと、年配は五十ばかり。推《お》しものの痘痕《あばた》は一目見て気の毒な程で、しかも黒い。字義をもって論ずると月下氷人でない、竈下《かまのした》炭焼であるが、身躾《みだしなみ》よく、カラアが白く、磨込んだ顔がてらてらと光る。地《じ》の透く髪を一筋|梳《すき》に整然《きちん》と櫛を入れて、髯の尖《さき》から小鼻へかけて、ぎらぎらと油ぎった処、いかにも内君が病身らしい。
 さて、お初にお目に懸《かか》りまする、いかがでごわりまするか、ますます御翻訳で、とさぞ食うに困って切々稼ぐだろう、と謂《い》わないばかりな言《こと》を、けろりとして世辞に云って、衣兜《かくし》から御殿持の煙草入、薄色の鉄の派手な塩瀬に、鉄扇かずらの浮織のある、近頃行わるる洋服持。どこのか媒妁人した御縁女の贈物らしく、貰った時の移香を、今かく中古《ちゅうぶる》に草臥《くたび》れても同一《おなじ》香《におい》の香水で、追《おっ》かけ追かけ香《にお》わせてある持物を取出して、気になるほど爪の伸びた、湯が嫌《きらい》らしい手に短い延《のべ》の銀|煙管《ぎせる》、何か目出度い薄っぺらな彫《ほり》のあるのを控えながら、先ず一ツ奥歯をスッと吸って、寛悠《ゆっくり》と構えた処は、生命保険の勧誘も出来そうに見えた。
 甚だ突然でごわりまするが、酒井俊蔵氏令嬢の儀で……ごわりまして、とまたスッと歯せせりをする。
 それ、えへん! と云えば灰吹と、諸礼|躾方《しつけかた
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