帰って来た。艶やかな濡髪に、梅花の匂|馥郁《ふくいく》として、繻子《しゅす》の襟の烏羽玉《うばたま》にも、香やは隠るる路地の宵。格子戸を憚《はばか》って、台所の暗がりへ入ると、二階は常ならぬ声高で、お源の出迎える気勢《けはい》もない。
 石鹸《シャボン》を巻いた手拭《てぬぐい》を持ったままで、そっと階子段《はしごだん》の下へ行くと、お源は扉《ひらき》に附着《くッつ》いて、一心に聞いていた。

       十九

「先生が酒を飲もうと飲むまいと、借金が有ろうと無かろうと、大きなお世話だ。遺伝が、肺病が、品行が何だ。当方《こちら》からお給事《みやづかえ》をしようと云うんじゃなし、第一欲しいと仰有《おっしゃ》ったって、差上げるやら、平に御免を被るやら、その辺も分らないのに、人の大切な令嬢を、裸体《はだか》にして検査するような事を聞くのは、無礼じゃないか。
 私《わっし》あ第一、河野。世間の宗教家と称《とな》うる奴が、吾々を捕《つかま》えて、罪の児《こ》だの、救ってやるのと、商売柄|好《すき》な事を云う。薬屋の広告は構わんが、しらきちょうめんな人間に向って罪の子とは何んだい。本人はともかくも、その親たちに対して怪しからん言種《いいぐさ》だと思ってるんです。
 今君が尋問に及んだ、先生の令嬢の身許検《みもとしら》べの条件が、ただの一ケ条でもだ。河野英吉氏の意志から出たのなら、私はもう学者や紳士の交際は御免|蒙《こうむ》る。そのかわりだ、半纏着《はんてんぎ》の附合いになって撲倒すよ。はははは、えい、おい、」
 と調子が砕けて、
「母様の指揮《さしず》だろう、一々。私はこうして懇意にしているからは、君の性質は知ってるんだ。君は惚れたんだろう。一も二もなく妙ちゃんを見染《みそめ》たんだ。」
「うう、まあ……」と対手《あいて》の血相もあり、もじもじする。
「惚れてよ、可愛い、可憐《いとし》いものなら、なぜ命がけになって貰わない。
 結婚をしたあとで、不具《かたわ》になろうが、肺病になろうが、またその肺病がうつって、それがために共々倒れようが、そんな事を構うもんか。
 まあ、何は措《お》いて、嫁の内の財産を云々《うんぬん》するなんざ、不埒《ふらち》の到《いたり》だ。万々一、実家《さと》の親が困窮して、都合に依って無心|合力《ごうりょく》でもしたとする。可愛い女房の親じゃないか。自分にも親なんだぜ、余裕があったら勿論貢ぐんだ。無ければ断る。が、人情なら三杯食う飯を一杯ずつ分《わけ》るんだ。着物は下着から脱いで遣るのよ。」
 と思い入った体で、煙草を持った手の尖《さき》がぶるぶると震えると、対手の河野は一向気にも留めない様子で、ただ上の空で聞いて首《こうべ》だけ垂れていたが、かえって襖《ふすま》の外で、思わずはらはらと落涙したのはお蔦である。
 何の話? と声のはげしいのを憂慮《きづか》って、階子段の下でそっと聞くと、縁談でございますよ、とお源の答えに、ええ、旦那の、と湯上りの颯《さっ》と上気した顔の色を変えたが、いいえ、河野様が御自分の、と聞いて、まあ、と呆れたように莞爾《にっこり》して、忍んで段を上って、上り口の次の室《ま》の三畳へ、欄干《てすり》を擦って抜足で、両方へ開けた襖の蔭へ入ったのを、両人《ふたり》には気が付かずに居るのである。
 と河野は自分には勢《いきおい》のない、聞くものには張合のない口吻《くちぶり》で、
「だが、母さんが、」
「母様が何だ。母様が娶《もら》うんじゃあるまい、君が女房にするんじゃないか。いつでもその遣方だから、いや、縁談にかかったの、見合をしたの、としばしば聞かされるのが一々勘定はせんけれども、ざっと三十ぐらいあった。その内、君が、自分で断ったのは一ツもあるまい。皆母さんがこう云った。叔父さんが、ああだ、父さんが、それだ、と難癖を附けちゃ破談だ。
 君の一家《いっけ》は、およそどのくらいな御門閥《ごもんばつ》かは知らん。河野から縁談を申懸けられる天下の婦人は、いずれも恥辱を蒙るようで、かねて不快に堪えんのだ。
 昔の国守大名が絵姿で捜せば知らず、そんな御註文に応ずるのが、ええ、河野、どこにだってあるものか。」
 と果は歎息して云うのであった。河野は急に景気づいて、
「何、無いことはありゃしない。そりゃ有るよ。君、僕ン許《とこ》の妹たちは、誰でもその註文に応ずるように仕立ててあるんだ。
 揃って容色《きりょう》も好《よし》、また不思議に皆《みんな》別嬪《べっぴん》だ。知ってるだろう。生れたての嬰児《あかんぼ》の時は、随分、おかしな、色の黒いのもあるけれど、母さんが手しおに掛けて、妙齢《としごろ》にするまでには、ともかくも十人並以上になるんだ、ね、そうじゃないか。」
 主税は返す言《ことば》もなく、これには否応なく頷
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