んが頼みにしている、四番目の娘だがね、つい、この間、暑中休暇で、東京から帰って来た、手入らずの嬢さんは、医学士にけがされたぜ。
己に毒薬を装《も》らせたし、ばれかかったお道さんの一件を、穏便にさせるために、大奥方の計らいで、院長に押附《おッつ》けたんだ。己と合棒の万太と云う、幼馴染の掏摸の夥間《なかま》が、ちゃんと材料《たね》を上げていら。
やっぱり家の為だろう。河野家の名誉のために、旧悪を知ってる上、お道さんと不都合した、早瀬と云う者を毒殺しようと、娘を一人傷物にしたんじゃないか。
そこを言うのだ。児《こども》よりも家を大切がる残酷な親だと云うのは、よ。
なぜ手をついて懺悔《ざんげ》をしない。悪かった。これからは可愛い娘を決して名聞《みょうもん》のためには使いますまい。家柄を鼻にかけて他《ひと》の娘に無礼も申掛けますまい、と恐入ってしまわないよ。
小児《こども》一人|犠牲《にえ》にして、毒薬なんぞ装らないでも、坊主になって謝《あやま》んねえな。」
五十六
面《おもて》も触《ふ》らず言《ことば》を継ぎ、
「それに、お前さん何と云った。――この間も病院で、この掛合をする前に、念のために聞いた時だ。――
たって英吉君の嫁に欲しいとお言いなさる、私《わっし》が先生のお妙さんは、実は柳橋の芸者の子だが、それでも差支えは無いのですか、と尋ねたら、お前さん、もっての外な顔をして、いや、途方もない。そんな賤《いや》しい素性の者なら、たとえ英吉がその為に、憧《こが》れ死《じに》をしようとも、己たち両親が承知をせん。家名に係わる、と云ったろう。
こう、お前《めえ》たちにゃ限らねえ。世間にゃそうした情無《なさけね》え了簡な奴ばかりだから、そんな奴等へ面当《つらあて》に、河野の一家《いっけ》を鎗玉《やりだま》に挙げたんだ。
はじめから話にならねえ縁談だから可いけれど、これが先生も承知の上、嬢さんも好いた男で、いざ、と云う時、そでねえ系図しらべをされて、芸者の子だというだけで、破談にでもなった時の、先生御夫婦、お嬢さんの心持はどんなだろう。
己《おい》らそれを思うから、人間並にゃ附合えねえ肩書つきの悪丁稚《あくでっち》を、一人前に育てた上、大切な嬢さんに惚れているなら添わしてやろう、とおっしゃって下すった、先生御夫婦のお志。掏摸の野郎と顔をならべて、似而非《えせ》道学者の坂田なんぞを見返そうと云った江戸児《えどッこ》のお嬢さんに、一式の恩返し、二ツあっても上げたい命を、一ツ棄てるのは安価《やす》いものよ。
お前さんにゃ気の毒だ。さぞ御迷惑でございましょう。」
と丁寧に笑って言って、
「迷惑や気の毒を勘酌《しんしゃく》して巾着切が出来るものか。真人間でない者に、お前《めえ》、道理を説いたって、義理を言って聞かしたって、巡査《おまわり》ほどにも恐くはねえから、言句《もんく》なしに往生するさ。軍《いくさ》に負けた、と思えば可《よ》かろう。
掏摸の指で突《つつ》いても、倒れるような石垣や、蟻で崩れる濛《ほり》を穿《ほ》って、河野の旗を立てていたって、はじまらねえ話じゃねえか。
お前さん、さぞ口惜《くやし》かろう。打《ぶ》ちたくば打て、殺したくば殺しねえ、義理を知って死ぬような道理を知った己じゃねえが、嬢さんに上げた生命《いのち》だから、その生命を棄てるので、お道さんや、お菅さんにも、言訳をするつもりだ。死んでも寂《さびし》い事はねえ、女房が先へ行って待っていら。
お蔦と二人が、毒蛇になって、可愛いお妙さんを守護する覚悟よ。見ろ、あの竜宮に在る珠は、悪竜が絡《まと》い繞《めぐ》って、その器に非ずして濫《みだ》りに近づく者があると、呪殺すと云うじゃないか。
呪詛《のろ》われたんだ、呪詛われたんだ。お妙さんに指を差して、お前たちは呪詛われたんだ。」
と膝に手を置き、片面《はんおもて》を、怪しきものの走るがごとく颯《さ》と暗くなった海に向けて、蝕ある凄《すご》き日の光に、水底《みなそこ》のその悪竜の影に憧るる面色《おももち》した時、隼の力の容貌は、かえって哲学者のごときものであった。
英臣は苔蒸せる石の動かざるごとく緘黙《かんもく》した。
一声高らかに雉子《きじ》が啼《な》くと、山は暗くなった。
勘助井戸の星を覗《のぞ》こうと、末の娘が真先《まっさき》に飜然《ひらり》と上って、続いて一人々々、名ある麗人の霊のごとく朦朧《もうろう》として露《あら》われた途端に、英臣はかねてその心構えをしたらしい、やにわに衣兜《かくし》から短銃《ピストル》を出して、衝《つ》と早瀬の胸を狙った。あわやと抱《いだ》き留めた惣助は刎倒《はねたお》されて転んだけれども、渠《かれ》危《あやう》し、と一目見て、道子と菅子が、身を蔽《おお》い
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