す。細君じゃない。その下女にさ。
 どうです。のろかったり、妬過ぎたり、凡人|業《わざ》じゃねえような、河野さん、貴下のお婿|様《さん》連にゃ、こういうのは有りますまい。
 己が掴《つかま》ったのはその人だ。首を縮《すく》めて、鯉の入《へえ》った籠を下げて、(魚籃《ぎょらん》)の丁稚《でっち》と云う形で、ついて行《ゆ》くと、腹こなしだ、とぶらりぶらり、昼頃まで歩行《ある》いてさ、それから行ったのが真砂町の酒井先生の内だった。
 学校のお留守だったが、親友だから、ずかずかと上って、小僧も二階へ通されたね。(奥さん、これにもお膳を下さい。)と掏摸《すり》にも、同一《おんなじ》ように、吸物膳。
 女中の手には掛けないで、酒井さんの奥方ともあろう方が、まだ少《わか》かった――縮緬《ちりめん》のお羽織で、膳を据えて下すって、(遠慮をしないで召食《めしあが》れ、)と優しく言って下すった時にゃ、己《おら》あ始めて涙が出たのよ。
 先生がお帰りなさると、四ツ膳の並んだ末に、可愛い小僧が居るじゃねえか。(何だい、)と聞かれたので、法学士が大口開いて(掏摸だよ。)と言われたので、ふッつり留《や》める気になったぜ、犬畜生だけ、情《なさけ》には脆《もろ》いのよ。
 法学士が、(さあ、使賃だ、祝儀だ、)と一円出して、(酒が飲めなきゃ飯を食ってもう帰れ、御苦労だった、今度ッからもっと上手に攫《や》れよ。)と言われて、畳に喰《くい》ついて泣いていると、(親がないんだわねえ、)と、勿体ねえ、奥方の声がうるんだと思いねえ。(晩の飯を内で食って、翌日《あす》の飯をまた内で食わないか、酒井の籠で飼ってやろう、隼。)と、それから親鳥の声を真似《まね》て、今でも囀《さえず》る独逸語だ。
 世の中にゃ河野さん、こんな猿を養って、育ててくれる人も有るのに、お前さん方は、まあ何という、べらぼうな料簡方《りょうけんかた》だい。
 可愛い娘たちを玉に使って、月給高で、婿を選んで、一家《いっけ》の繁昌《はんじょう》とは何事だろう。
 たまたま人間に生を受けて、しかも別嬪《べっぴん》に生れたものを、一生にたった一度、生命《いのち》とはつりがえの、色も恋も知らせねえで、盲鳥《めくらどり》を占めるように野郎の懐へ捻込《ねじこ》んで、いや、貞女になれ、賢母になれ、良妻になれ、と云ったって、手品の種を通わせやしめえし、そう、うまく行くものか。
 見たが可い、こう、己《おれ》が腕がちょいと触ると、学校や、道学者が、新粉《しんこ》細工で拵《こしら》えた、貞女も賢母も良妻も、ばたばたと将棊倒しだ。」
 英臣の目は血走った。

       五十五

「河野の家には限らねえ。およそ世の中に、家の為に、女の児《こ》を親勝手に縁附けるほど惨《むご》たらしい事はねえ。お為ごかしに理窟を言って、動きの取れないように説得すりゃ、十六や七の何にも知らない、無垢《むく》な女《むすめ》が、頭《かぶり》一ツ掉《ふ》り得るものか。羞含《はにか》んで、ぼうとなって、俯向《うつむ》くので話が極《きま》って、赫《かっ》と逆上《のぼ》せた奴を車に乗せて、回生剤《きつけ》のような酒をのませる、こいつを三々九度と云うのよ。そこで寝て起《おき》りゃ人の女房だ。
 うっかり他《ひと》と口でも利きゃ、直ぐに何のかのと言われよう。それで二人が繋《つなが》って、光った態《なり》でもして歩行《ある》けば、親達は緋縅《ひおどし》の鎧《よろい》でも着たように汝《うぬ》が肩身をひけらかすんだね。
 娘が惚れた男に添わせりゃ、たとい味噌漉《みそこし》を提げたって、玉の冠を被《かぶ》ったよりは嬉しがるのを知らねえのか。傍《はた》の目からは筵《むしろ》と見えても、当人には綾錦《あやにしき》だ。亭主は、おい、親のものじゃねえんだよ。
 己が言うのが嘘だと思ったら、お道さんに聞いて見ねえ。病院長の奥様より、馬小屋へ入《へえ》っても、早瀬と世帯が持ちたいとよ。お菅さんにも聞いて見ねえ。」
「不埒《ふらち》な奴だ?」
 と揺《ゆらめ》いた英臣の髯の色、口を開《あ》いて、黒煙に似た。
「不埒は承知よ。不埒を承知でした事を、不埒と言ったって怯然《びく》ともしねえ。豪《えら》い、と讃《ほ》めりゃ吃驚《びっくり》するがね。
 今更慌てる事はないさ、はじめから知れていら。お前さんの許《とこ》のような家風で、婿を持たした娘たちと、情事《いろごと》をするくらい、下女を演劇《しばい》に連出すより、もっと容易《たやす》いのは通相場よ。
 こう、もう威張ったって仕ようがねえ。恐怖《おっかな》くはないと言えば、」
 と微笑《ほほえ》みながら、
「そんな野暮な顔をしねえで、よく言うことを聞け、と云うに。――
 おい、まだ驚く事があるぜ。もう一枝、河野の幹を栄《さかえ》さそうと、お前さ
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