も沈み、鶏の羽《は》さえ羽叩くに懶《ものう》げで、庇間《ひあわい》にかけた階子《はしご》に留まって、熟《じっ》と中空を仰ぐのさえ物ありそうな。透間に射《さ》し入る日の光は、風に動かぬ粉にも似て、人々の袖に灰を置くよう、身動《みじろぎ》にも払われず、物蔭にも消えず、細《こまや》かに濃く引包《ひッつつ》まれたかの思《おもい》がして、手足も顔も同じ色の、蝋にも石にも固《かたま》るか、とばかり次第に息苦しい。
白昼凝って、尽《ことごと》く太陽の黄なるを包む、混沌《こんとん》たる雲の凝固《かたまり》とならんず光景《ありさま》。万有あわや死せんとす、と忌わしき使者《つかい》の早打、しっきりなく走るは鴉《からす》で。黒き礫《つぶて》のごとく、灰色の天狗《てんぐ》のごとく乱れ飛ぶ、とこれに驚かされたようになって、大波を打つのは海よ。その、山の根を畝《うね》り、岩に躍り、渚《なぎさ》に飜《かえ》って、沖を高く中空に動けるは、我ここに天地の間に充満《みちみち》たり、何物の怪しき影ぞ、円《まどか》なる太陽《ひ》の光を蔽《おお》うやとて、大紅玉の悩める面《おもて》を、拭《ぬぐ》い洗わんと、苛立ち、悶《もだ》え、憤れる状《さま》があったが、日の午に近き頃《ころおい》には、まさにその力尽き、骨|萎《な》えて、また如何《いかん》ともするあたわざる風情して、この流動せる大偉人は、波を伏せ※[#「さんずい+散」、367−14]《しぶ》きを収めて、なよなよと拡げた蒼き綿のようになって、興津、江尻、清水をかけて、三保の岬、田子の浦、久能の浜に、音をも立てず倒れたのである。
一|分《ぶ》たちまち欠け始めた、日の二時頃、何の落人《おちゅうど》か慌《あわただ》しき車の音。一町ばかりを絶えず続いて、轟々《ごろごろ》と田舎道を、清水港の方から久能山の方《かた》へ走らして通る、数八台。真前《まっさき》の車が河野大夫人富子で、次のが島山夫人菅子、続いたのが福井県参事官の新夫人辰子、これが三番目の妹で、その次に高島田に結ったのが、この夏さる工学士とまた縁談のある四番の操子《みさこ》で、五ツ目の車が絹子と云う、三五の妙齢。六台目にお妙が居た。
一所に東京へと云うのを……仔細《しさい》あって……早瀬が留めて、清水港の海水浴に誘ったのである。
お妙の次を道子が乗った。ドン尻に、め[#「め」に傍点]組の惣助、婦《おんな》ばかりの一群《ひとむれ》には花籠に熊蜂めくが、此奴《こいつ》大切なお嬢の傍《かたえ》を、決して離れる事ではない。
これは蓋《けだ》し一門の大統領、従五位勲三等河野英臣の発議に因て、景色の見物をかねて、久能山の頂で日蝕の観測をしようとする催《もよおし》で。この人達には花見にも月見にも変りはないが、驚いて差覗いた百姓だちの目には、天宮に蝕の変あって、天人たちが遁《に》げるのだと思ったろう。
共に清水港の別荘に居る、各々《めいめい》の夫は、別に船をしつらえて、三保まわりに久能の浜へ漕《こ》ぎ寄せて、いずれもその愛人の帰途《かえり》を迎えて、夜釣をしながら海上を戻る計画。
小児《こども》たち、幼稚《おさな》いのは、傅《もり》、乳母など、一群《ひとむれ》に、今日は別荘に残った次第。すでに前にも言ったように、この発議は英臣で、真前《まっさき》に手を拍《う》って賛成したのは菅子で、余は異論なく喜んで同意したが、島山夫人は就中《なかんずく》得意であった。
と云うのは、去年汽車の中で、主税が伊太利人に聞いたと云うのを、夫人から話し伝えて、まだ何等の風説の無い時、東京の新聞へ、この日の現象を細かに論じて載せたのは理学士であったから。その名たちまち天下に伝えて、静岡では今度の日蝕を、(島山蝕)――とさえ称《とな》えたのである。
五十二
田を行《ゆ》く時、白鷺が驚いて立った。村を出る時、小店の庭の松葉牡丹《まつばぼたん》に、ちらちら一行の影がさした。聯《つらな》る車は、薄日なれば母衣《ほろ》を払って、手に手にさしかざしたいろいろの日傘に、あたかも五彩の絹を中空に吹き靡《なび》かしたごとく、死したる風も颯《さっ》と涼しく、美女《たおやめ》たちの面《おもて》を払って、久能の麓《ふもと》へ乗附けたが、途中では人一人、行脚の僧にも逢わなかったのである。
蝕あり、変あり、兵あり、乱《みだれ》ある、魔に囲まれた今日の、日の城の黒雲を穿《うが》った抜穴の岩に、足がかりを刻んだ様な、久能の石段の下へ着くと、茶店は皆ひしひしと真夜中のごとく戸を鎖《とざ》して、蜻蛉《とんぼう》も飛ばず。白茶けた路ばかり、あかあかと月影を見るように、寂然《ひっそり》としているのを見て、大夫人が、
「野蛮だね。」
と嘲笑《あざわら》って、車夫に指揮《さしず》して、一軒店を開けさして、少時《しばら
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