く》休んで、支度が出来ると、帰りは船だから車は不残《のこらず》帰す事にして、さて大《おおい》なる花束の糸を解いて、縦に石段に投げかけた七人の裾袂、ひらひらと扇子を使うのが、さながら蝶のひらめくに似て、め[#「め」に傍点]組を後押えで、あの、石段にかかった。
が、河野の一族、頂へ上ったら、思いがけない人を見よう。
これより前《さき》、相貌堂々として、何等か銅像の揺《ゆる》ぐがごとく、頤《おとがい》に髯《ひげ》長き一個の紳士の、握《にぎり》に銀《しろがね》の色の燦爛《さんらん》たる、太く逞《たくまし》き杖《ステッキ》を支《つ》いて、ナポレオン帽子の庇《ひさし》深く、額に暗き皺《しわ》を刻み、満面に燃《もゆ》るがごとき怒気を含んで、頂の方を仰ぎながら、靴音を沈めて、石段を攀《よ》じて、松の梢《こずえ》に隠れたのがあった。
これなん、ここに正に、大夫人がなせるごとく、海を行く船の竜頭に在るべき、河野の統領英臣であったのである。
英臣が、この石段を、もう一階で、東照宮の本殿になろうとする、一場の見霽《みはらし》に上り着いて、海面《うなづら》が、高くその骨組の丈夫な双の肩に懸《かか》った時、音に聞えた勘助井戸を左に、右に千仞《せんじん》の絶壁の、豆腐を削ったような谷に望んで、幹には浦の苫屋《とまや》を透《すか》し、枝には白き渚《なぎさ》を掛け、緑に細波《さざなみ》の葉を揃えた、物見の松をそれぞと見るや――松の許《もと》なる据置の腰掛に、長くなって、肱枕《ひじまくら》して、面《おもて》を半ば中折の帽子で隠して、羽織を畳んで、懐中《ふところ》に入れて、枕した頭《つむり》の傍《わき》に、薬瓶かと思う、小さな包を置いて、悠々と休んでいた一個《ひとり》の青年を見た。
と立向って、英臣が杖《ステッキ》を前につき出した時、日を遮った帽子を払って、柔かに起直って、待構え顔に屹《き》と見迎えた。その青年を誰とかなす――病後の色白きが、清く瘠《や》せて、鶴のごとき早瀬主税。
英臣は庇下《ひさしさが》りに、じろりと視《なが》めて、
「疾《はや》かった、のう」と鷹揚《おうよう》に一ツ頤《あご》でしゃくる。
「御苦労様です。」
と、主税は仰ぐようにして云った。
「いや、ここで話しょうと云うたのは私《わし》じゃで、君の方が病後大儀じゃったろう。しかし、こんな事を、好んで持上げたのはそちらじゃて、五分々々か、のう、はははは、」
と髯の中に、唇が薄く動いて、せせら笑う。
早瀬は軽く微笑《ほほえ》みながら、
「まあ、お掛けなさいまし。」
と腰掛けた傍《かたわら》を指で弾《はじ》いた。
「や、ここで可《え》え。話は直《じ》き分る。」と英臣は杖《ステッキ》を脇挟んで、葉巻を銜《くわ》えた。
「早解りは結構です、そこで先日のお返事は?」
「どうかせい、と云うんじゃった、のう。もう一度云うて見い。」
「申しましょうかね。」
「うむ、」
と吸いつけた唾《つば》を吐く。
「ここで極《きめ》て下さいましょうか。過日《このあいだ》、病院で掛合いました時のように、久能山で返事しようじゃ困りますよ。ここは久能山なんですから。またと云っちゃ竜爪山《りゅうそうざん》へでも行かなきゃならない。そうすりゃ、まるで天狗が寄合いをつけるようです。」
「余計な事を言わんで、簡単に申せ。」
と今の諧謔《かいぎゃく》にやや怒気を含んで、
「私《わし》が対手《あいて》じゃ、立処《たちどころ》に解決してやる!」
「第一!」
と言った……主税の声は朗《ほがらか》であった。
「貴下《あなた》の奥さんを離縁なさい。」
隼
五十三
一言亡状《いちげんぼうじょう》を極めたにも係わらず、英臣はかえって物静《ものしずか》に聞いた。
「なぜか。」
「馬丁《べっとう》貞造と不埒《ふらち》して、お道さんを産んだからです。」
強いて言《ことば》を落着けて、
「それから、」
「第二、お道さんを私に下さい。」
「何でじゃ?」
「私と、いい中です。」
「むむ、」
と口の内で言った。
「それから、」
「第三、お菅さんを、島山から引取っておしまいなさい。」
「なぜな。」
「私と約束しました。」
「誰と?」
はたと目を怒らすと、早瀬は澄まして、
「私とさ。」
「うむ、それから?」
「第四、病院をお潰《つぶ》しなさい。」
「なぜかい。」
「医学士が毒を装《も》ります。」
「まだ有った、のう。」と、落着いて尋ねた。
「河野家の家庭は、かくのごとく汚《けが》れ果てた。……最早や、忰《せがれ》の嫁を娶《と》るのに、他《ひと》の大切な娘の、身分系図などを検《しら》べるような、不埒な事はいたしますまい。また一門の繁栄を計るために、娘どもを餌にして、婿を釣りますまい。
就中《なかんずく》、独逸
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