が動いたと思うと、睫毛《まつげ》が濃くなって、ほろりとして、振返ると、まだそこに、看護婦が立っているので、慌てて袂《たもと》を取って、揉込《もみこ》むように顔を隠すと、美しい眉のはずれから、振《ふり》が飜《ひるがえ》って、朱鷺《とき》色の絽《ろ》の長襦袢の袖が落ちる。
「今そんな事を聞いちゃ、厭《いや》!」
 と突慳貪《つっけんどん》なように云った。勿《な》、問いそそこに人あるに、涙|得《え》堪えず、と言うのである。
 看護婦は心得て、
「では、あの、お言託《ことづけ》は。」
「ちと後にして頂きましょう。お嬢さん、そして、お伴をしました、め[#「め」に傍点]組の奴は?」
「停車場《ステイション》で荷物を取って来るの。半日なら大丈夫だって、氷につけてね、貴下《あなた》の好《すき》なお魚を持って来たのよ。病院なら直《じ》き分ります、早くいらっしゃいッて、車をそう云って、あの、私も早く来たかったから、先へ来たわ。皆《みんな》、そうやって思ってるのに、貴下《あなた》は酷《ひど》いわ。手紙も寄越さないんですもの。お蔦さん……」
 とまた声が曇って、黙って差俯向《さしうつむ》いた主税を見て、
「あの、私ねえ、いろいろ沢山話があるわ。入院していらっしゃる、と云うから、どんなに悪いんだろうと思ったら、起きていられるのね。それだのに、まあ……お蔦さん……私……貴下に叱言《こごと》を言うこともあるけれど、大事な用があるから、それを済ましてから緩《ゆっく》りしましょうね。」
 と甘えるように直ぐ変って、さも親しげに、
「小刀《ナイフ》はあって?」
 余り唐突《だしぬけ》な問だったから、口も利けないで……また目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る。
「では、さあ、私の元結《もとゆい》を切って頂戴。」
「元結《もとゆい》を? お嬢さんの。」
「ええ、私の髪の、」
 と、主税が後へずらないとその膝に乗ったろう、色気も無く、寝台《ねだい》の端に、後向きに薄いお太鼓の腰をかけると、緋鹿子がまた燃える。そのままお妙は俯向《うつむ》いて、玉のごとき頸《うなじ》を差伸べ、
「お切んなさいよ、さあ、早くよ。父上《とうさん》も知っていてよ、可《い》いんだわ。」
 と美しく流眄《ながしめ》に見返った時、危なく手がふるえていた。小刀の尖《さき》が、夢のごとく、元結を弾《はじ》くと、ゆらゆらと下った髪を、お妙が、はらりと掉《ふ》ったので、颯《さっ》と流れた薄雲の乱るる中から、ふっと落ちた一握《ひとにぎり》の黒髪があって、主税の膝に掛ったのである。
 早瀬は氷を浴びたように悚然《ぞっ》とした。
「お蔦さんに託《ことづか》ったの。あの、記念《かたみ》にね、貴下に上げて下さいッて、主税さん、」
 と向う状《ざま》に、椅子の凭《かかり》に俯伏《うつぶ》せになると、抜いて持った簪《かんざし》の、花片が、リボンを打って激しく揺れて、
「もうその他《ほか》には逢えないのよ。」
 お蔦の記念の玉の緒は、右の手に燃ゆるがごとく、ひやひやと練衣《ねりぎぬ》の氷れるごとき、筒井筒振分けて、丈にも余るお妙の髪に、左手《ゆんで》を密《そっ》と掛けながら、今はなかなかに胴据《どうすわ》って、主税は、もの言う声も確《たしか》に、
「亡くなったものの髪毛《かみのけ》なんぞ。……
 飛んでも無い。先生が可《い》い、とおっしゃいましたか、奥様が可い、とおっしゃったんですかい。こんなものをお頭《つむり》へ入れて。御出世前の大事なお身体《からだ》じゃありませんか。ああ、鶴亀々々、」
 と貴いものに触るように、静《しずか》にその緑の艶《つや》を撫でた。
「私、出世なんかしたかないわ。髪結さんにでも何にでもなってよ。」
 と勇ましく起直って、
「父さんがね、主税さん、病気が治ったら東京へお帰んなさいッて、そうして、あの、……お墓参をしましょうね。」


     日蝕

       五十一

 日盛りの田畝道《たんぼみち》には、草の影も無く、人も見えぬ。村々では、朝から蔀《しとみ》を下ろして、羽目を塞いだのさえ少くない。田舎は律義で、日蝕は日の煩いとて、その影には毒あり、光には魔あり、熱には病《やまい》ありと言伝える。さらぬだにその年は九分九厘、ほとんど皆既蝕と云うのであった。
 早朝《あさまだき》日の出の色の、どんよりとしていたのが、そのまま冴えもせず、曇りもせず。鶏卵《たまご》色に濁りを帯びて、果し無き蒼空《あおぞら》にただ一つ。別に他に輝ける日輪があって、あたかもその雛形《ひながた》のごとく、灰色の野山の天に、寂寞として見えた――
 風は終日《ひねもす》無かった。蒸々《むしむし》と悪気の籠った暑さは、そこらの田舎屋を圧するようで、空気は大磐石に化したるごとく、嬰児《みどりご》の泣音《なくね》
前へ 次へ
全107ページ中101ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング