と、投げる様に言棄てたが、恐気《おそれげ》も無く、一分時の前は炎のごとく真紅《まっか》に狂ったのが、早や紫色に変って、床に氷ついて、飜《ひるがえ》った腹の青い守宮《やもり》を摘《つま》んで、ぶらりと提げて、鼻紙を取って、薬瓶と一所に、八重にくるくると巻いて包んで、枕許のその置戸棚の奥へ、着換の中へ突込んで、ついでにまだ、何かそこらを探したのは、落ちた蛾を拾おうとするらしかったが、それは影も無い。
 なお棚には、他に二つばかり処方の違った、今は用いぬ、同一《おなじ》薬瓶があった。その一個《ひとつ》を取って、ハタと叩きつけると、床に粉々になるのを見向きもしないで、躍上るように勢込んで寝台《ねだい》に上って、むずと高胡坐《たかあぐら》を組んだと思うと、廊下の方を屹《きっ》と見て、
「馬鹿な奴等! 誰だと思う。」
 と言うと斉《ひと》しく、仰向けに寝て、毛布《けっと》を胸へ。――鶏《とり》の声を聞きながら、大胆不敵な鼾《いびき》で、すやすやと寝たのである。
 暁かけて、院長が一度、河野の母親大夫人が一度、前後して、この病室を差覗《さしのぞ》いて、人知れず……立去った。
 早瀬が目を覚ますと、受持の看護婦が、
「薬は召上りましたか。瓶が落ちて破《わ》れておりましたが。」
 と注意をしたのは言うまでもなかった。
 で、新《あたらし》い瓶がもう来ていたが、この分は平気で服した。
 その日|燈《あかり》の点《つ》くちと前に、早瀬は帯を緊直《しめなお》して、看護婦を呼んで、
「お世話になりました。お庇様《かげさま》でどうやら助りました。もう退院をしまして宜しいそうで、後の保養は、河野さんの皆さんがいらっしゃる、清水港の方へ来てしてはどうか、と云って下さいますから、参ろうかと思います。何にしても一旦塾の方へ引取りますが、種々《いろいろ》用がありますから、人を遣って、内の小使をお呼び下さい。それから、お呼立て申して済みませんが、少々お目に懸りたい事がございます。ちょっとこの室までお運びを願いたい、と河野さんに。……いや、院長さんじゃありません、母屋にいらっしゃる英臣さん。」
「はあ、大先生に……申し上げましょう。」
「どうぞ。ああ、もし、もし、」
 と出掛けた白衣《びゃくえ》の、腰の肥《ふと》いのを呼留めて、
「御書見中ででもありましたら、御都合に因って、こちらから参りましても可《よ》うございますと。」
 馴染んでいるから、黙って頷《うなず》いて室を出て、表階子の方へ跫音《あしおと》がして、それぎり忙しい夕暮の蝉の声。どこかの室で、新聞を朗読するのが聞えたが、ものの五分間|経《た》ったのではなかった。二階もまだ下り切るまいと思うのに、看護婦が、ばたばた忙《せわ》しく引返して、発奮《はずみ》に突込むように顔を出して、
「お客様ですよ。」
「島山さんの?」
 と言う、呼吸《いき》も引かず、早瀬は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って茫然とした。
 昨夜《ゆうべ》の事の不思議より、今|目前《まのあたり》の光景を、かえって夢かと思うよう、恍惚《うっとり》となったも道理。
 看護婦の白衣にかさなって、紫の矢絣《やがすり》の、色の薄いが鮮麗《あざやか》に、朱緞子《しゅどんす》に銀と観世水のやや幅細な帯を胸高に、緋鹿子《ひがのこ》の背負上《しょいあ》げして、ほんのり桜色に上気しながら、こなたを見入ったのは、お妙である!
「まあ!……」
 ときょとんとして早瀬はひたと瞻《みつ》めた。
「主税さん。」
 と、一年越、十年《ととせ》も恋しく百年《ももとせ》も可懐《なつかし》い声をかけて、看護婦の傍《かたわら》をすっと抜けて真直《まっすぐ》に入ったが、
「もう快《よ》くって?」
 と胸を斜めに、帯にさし込んだ塗骨の扇子《おうぎ》も共に、差覗《さしのぞ》くようにした。
「お嬢さん……」とまだ※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]《ぼう》としている。
「しばらくね。」
 と前《さき》へ言われて、はじめて吃驚《びっくり》した顔をして、
「先生は?」
「宜しくッて、母さんも。」と、ちゃんと云う。

       五十

 寝台《ねだい》と椅子との狭い間、目前《めさき》にその燃ゆるような帯が輝いているので、辷《すべ》り下りようとする、それもならず。蒼空《あおぞら》の星を仰ぐがごとく、お妙の顔を見上げながら、
「どうして来たんです。誰と。貴女《あなた》。いつ。どの汽車で。」と、一呼吸《ひといき》に慌《あわただ》しい。
「今日の正午《おひる》の汽車で、今来たわ。惣助ッて肴屋《さかなや》さんが一所なの。」
「ええ、め[#「め」に傍点]組がお供で。どうしてあれを御存じですね。」
「お蔦さんの事よ、」
 と言いかける、口の莟《つぼみ》
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