二三日[#「二三日」は底本では「三三日」]めっきり暑さが増したので、中には扉《と》を明けたまま、看護婦が廊下へ雪のような裙《すそ》を出して、戸口に横《よこた》わって眠ったのもあった。遠くで犬の吠ゆる声はするが、幸いどの呻吟声《うめきごえ》も聞えずに、更けてかれこれ二時であろう。
厠は表階子《おもてばしご》の取附《とッつ》きにもあって、そこは燈《あかり》も明《あかる》いが、風は佳《よ》し、廊下は冷たし、歩行《ある》くのも物珍らしいので、早瀬はわざと、遠い方の、裏階子の横手の薄暗い中へ入った。
ざぶり水を注《か》けながら、見るともなしに、小窓の格子から田圃《たんぼ》を見ると、月は屋《や》の棟に上ったろう、影は見えぬが青田の白さ。
風がそよそよと渡ると見れば、波のように葉末が分れて、田の水の透いたでもなく、ちらちらと光ったものがある。緩い、遅い、稲妻のように流れて、靄《もや》のかかった中に、土のひだが数えられる、大巌山の根を低く繞《めぐ》って消えたのは、どこかの電燈が閃《ひらめ》いて映ったようでもあるし、蛍が飛んだようにも思われる。
手水《ちょうず》と、その景色にぶるぶると冷くなって、直ぐに開けて出ようとする。戸の外へ、何か来て立っていて、それがために重いような気がして、思わず猶予《ためら》って[#「猶予って」は底本では「猶了って」]、暗い中に、昼間|被《き》かえた自分の浴衣の白いのを、視《なが》めて悚然《ぞっ》として咳《せき》をしたが、口の裡《うち》で音には出ぬ。
「早瀬さん。」
「お蔦か、」
と言った自分の声に、聞えた声よりも驚かされて、耳を傾けるや否や、赫《かっ》となって我を忘れて、しゃにむに引開けようとした戸が、少しきしんで、ヒヤリと氷のような冷いものを手に掴んで、そのまま引開けると、裏階子が大《おおき》な穴のように真黒《まっくろ》なばかりで、別に何にも無い。
瓦を噛《か》むように棟近く、夜鴉《よがらす》が、かあ、と鳴いた。
鳴きながら、伝うて飛ぶのを、※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]《ぼう》として仰ぎながら、導かれるようにふらふらと出ると、声の止む時、壇階子の横を廊下に出ていた。
と見ると打向い遥か斜めなる、渠《かれ》が病室の、半開きにして来た扉《と》の前に、ちらりと見えた婦《おんな》の姿。――出たのか、入ったのか、直ぐに消えた。
ぱたぱたと、我ながら慌《あわただ》しく跫音《あしおと》立てて、一文字に駈けつけたが、室へ入口で、思わず釘附にされたようになった。
バサリと音して、一握《ひとにぎり》の綿が舞うように、むくむくと渦《うずま》くばかり、枕許の棚をほとんど転《ころが》って飛ぶのは、大きな、色の白い蛾《ひとりむし》で。
枕をかけて陰々とした、燈《ともしび》の間に、あたかも鞠《まり》のような影がさした。棚には、菅子が活けて置いた、浅黄の天鵝絨《びろうど》に似た西洋花の大輪《おおりん》があったが、それではなしに――筋一ツ、元来の薬|嫌《ぎらい》が、快いにつけて飲忘れた、一度ぶり残った呑かけの――水薬《すいやく》の瓶に、ばさばさと当るのを、熟《じっ》と瞻《みつ》めて立つと、トントントンと壇を下りるような跫音がしたので、どこか、と見当も分らず振向いたのが表階子の方であった。その正面の壁に、一番|明《あかる》かった燈《ひ》が、アワヤ消えそうになっている。
その時、蛾《ひとりむし》に向うごとく、衝《つ》と踏込む途端に、
「私ですよう引[#「引」は小書き]」と床に沈んで、足許の天井裏に、電話の糸を漏れたような、夢の覚際に耳に残ったような、胸へだけ伝わるような、お蔦の声が聞えたと思うと、蛾《ひとりむし》がハタと落ちた。
はじめて心付くと、厠の戸で冷く握って、今まで握緊《にぎりし》めていた、左の拳《こぶし》に、細い尻尾のひらひらと動くのは、一|尾《ぴき》の守宮《やもり》である。
はっと開くと、雫《しずく》のように、ぽたりと床に落ちたが、足を踏張ったまま動きもせぬ。これに目も放さないで、手を伸ばして薬瓶を取ると、伸過ぎた身の発奮《はず》みに、蹌踉《よろ》けて、片膝を支《つ》いたなり、口を開けて、垂々《たらたら》と濺《そそ》ぐと――水薬の色が光って、守宮の頭を擡《もた》げて睨《にら》むがごとき目をかけて、滴るや否や、くるくると風車のごとく烈しく廻るのが、見る見る朱を流したように真赤《まっか》になって、ぶるぶると足を縮めるのを、早瀬は瞳を据えて屹《きっ》と視た。
四十九
早瀬はその水薬《すいやく》の残余《のこり》を火影《ほかげ》に透かして、透明な液体の中に、芥子粒《けしつぶ》ほどの泡の、風のごとくめぐる状《さま》に、莞爾《にっこり》して、
「面白い!」
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