》の可傷《いたまし》さに、お蔦は薄化粧さえしているのである。
 お蔦は恥じてか、見て欲《ほし》かったか、肩を捻《ひね》って、髷《まげ》を真向きに、毛筋も透通るような頸《うなじ》を向けて、なだらかに掛けた小掻巻《こがいまき》の膝の辺《あたり》に、一波打つと、力を入れたらしく寝返りした。

       四十七

「似合った、似合った、ああ、島田が佳《よ》く出来た。早瀬なんかに分るものか。顔を見せな、さあ。」
 とじりりと膝を寄せて、その時、颯《さっ》と薄桃色の瞼《まぶた》の霑《うる》んだ、冷たい顔が、夜の風に戦《そよ》ぐばかり、蓐《しとね》の隈《くま》に俤《おもかげ》立つのを、縁から明取《あかりと》りの月影に透かした酒井が、
「誰か来て蛍籠を外しな、厭《いや》な色だ。」
「へへい、」と頓興な、ぼやけた声を出して、め[#「め」に傍点]組が継《つぎ》の当った千草色の半股引《はんももひき》で、縁側を膝立って来た――婦《おんな》たちは皆我を忘れて六畳に――中には抱合って泣いているのもあるので、惣助一人三畳の火鉢の傍《わき》に、割膝で畏《かしこま》って、歯を喰切《くいしば》った獅噛面《しがみづら》は、額に蝋燭《ろうそく》の流れぬばかり、絵にある燈台鬼という顔色《がんしょく》。時々病人の部屋が寂《しん》とするごとに、隣の女連の中へ、四ツ這《ばい》に顔を出して、
(死んだか、)と聞いて、女房のお増に流眄《しりめ》にかけられ、
(まだか、)と問うて、また睨《ね》めつけられ、苦笑いをしては引込《ひっこ》んで控えたのが――大先生の前なり、やがて仏になる人の枕許、謹しんで這って出て、ひょいと立上って蛍籠を外すと、居すくまった腰が据《すわ》らず、ひょろり、で、ドンと縁へ尻餅。魂が砕けたように、胸へ乱れて、颯と光った、籠の蛍に、ハット思う処を、
「何ですね、お前さん、」
 と鼻声になっている女房《かみさん》に剣呑《けんのみ》を食って、慌てて遁込《にげこ》む。
 この物音に、お蔦はまたぱっちりと目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、心細く、寂しげに、枕を酒井に擦寄せると……
「皆《みんな》居る、寂しくはないよ。しかしどうだい。早瀬が来たら、誰も次の室《ま》へ行って貰って、こうやって、二人許りで、言いたいことがあるだろう。致方《しかた》が無い断念《あきら》めな。断念めて――己を早瀬だと思え。世界に二人と無い夫だと思え。早瀬より豪《えら》い男だ。学問も出来る、名も高い、腕も有る、あれよりは年も上だ。脊も高い、腹も確《たしか》だ、声も大《おおき》い、酒も強い、借金も多い、男|振《ぶり》もあれより増《まし》だ。女房もあり、情婦《いろ》もあり、娘も有る。地位も名誉も段違いの先生だ。酒井俊蔵を夫と思え、情夫《いろおとこ》と思え、早瀬主税だと思って、言いたいことを言え、したいことをしろ、不足はあるまい。念仏も弥陀《みだ》も何《なんに》も要らん、一心に男の名を称《とな》えるんだ。早瀬と称えて袖に縋《すが》れ、胸を抱け、お蔦。……早瀬が来た、ここに居るよ。」
 と云うと、縋りついて、膝に乗るのを、横抱きに頸《うなじ》を抱いた。
 トつかまろうとする手に力なく、二三度探りはずしたが、震えながらしっかりと、酒井先生の襟を掴《つか》んで、
「咽喉《のど》が苦しい、ああ、呼吸《いき》が出来ない。素人らしいが、(と莞爾《にっこり》して、)口移しに薬を飲まして……」
 酒井は猶予《ため》らわず[#「猶予らわず」は底本では「猶了らわず」]、水薬を口に含んだのである。
 がっくりと咽喉を通ると、気が遠くなりそうに、仰向けに恍惚《うっとり》したが、
「早瀬さん。」
「お蔦。」
「早瀬さん……」
「むむ、」
「先《せ》、先生が逢っても可いって、嬉しいねえ!」
 酒井は、はらはらと落涙した。


     おとずれ

       四十八

 病室の寝台《ねだい》に、うつらうつらしていた早瀬は、フト目が覚めたが……昨夜あたりから、歩行《ある》いて厠《かわや》へ行《ゆ》かれるようになったので、もう看護婦も付いておらぬ。毎晩|極《きま》ったように見舞ってくれた道子が、一昨日《おととい》の夜《よ》の……あの時から、ふッつり来ないし、一寝入りして覚めた今は、昼間、菅子に逢ったのも、世を隔てたようで心寂しい。室内を横伝い、まだ何か便り無さそうだから、寝台の縁に手をかけて、腰を曲げるようにして出たが、扉《と》の外になると、もう自分でも足の確《たしか》なのが分って、両側のそちこちに、白い金盥《かなだらい》に昇汞水《しょうこうすい》の薄桃色なのが、飛々の柱燈《はしらあかり》に見えるのを、気の毒らしく思うほど、気も爽然《さっぱり》して、通り過ぎた。
 どこも寝入って、寂《しん》として、この
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