で、は……」と云う。
「いつもそうか。」
と尋ねた時、衣兜《かくし》に両手を突込んで、肩を揺《ゆす》った。
「はい、いつでも、」
「む、そうか。」と言い棄てに、荒らかに廊下を踏んだ。
「あれ、主人《あるじ》の跫音《あしおと》でございます。」
「院長ですか。」
道子は色を変えて、
「あれ、どうしましょう、こちらへ参りますよ。アレ、」
「院長が入院患者を見舞うのに、ちっとも不思議はありません。」と早瀬は寝ながら平然として云った。
目も尋常《ただ》ならず、おろおろして、
「両親も知りませんが、主人《あるじ》は酷《ひど》い目に逢わせますのでございますよ。」としめ木にかけられた様に袖を絞って立窘《たちすく》むと、
「寝台《ねだい》の下へお隠れなさい。可《い》いから、」
とむっくと起きた、早瀬は毛布《けっと》を飜《ひるがえ》して、夫人の裾を隠しながら、寝台に屹《きっ》と身構えたトタンに、
「院長さんが御廻診ですよう!」と看護婦の金切声が物凄《ものすご》く響いたのである。
理順は既に室に迫って、あわや開けようとすると、どこに居たか、忽然《こつぜん》として、母夫人が立露《たちあらわ》れて、扉《ドア》に手を掛けた医学士の二の腕を、横ざまにグッと圧《おさ》えて……曰く、
「院長。」
と、その得も言われぬ顔を、例の鋭い目で、じろりと見て、
「どうぞ、こちらへ。いいえ、是非。」
燃ゆるがごとき嫉妬の腕《かいな》を、小脇にしっかり抱込んだと思うと、早や裏階子の方へ引いて退《の》いた。――
蛍
四十六
「己《おれ》が分るか、分るか。おお酒井だ。分ったか、しっかりしな。」
酒井俊蔵ただ一人、臨終《いまわ》のお蔦の枕許に、親しく顔を差寄せた。次の間には……
「ああ、皆《みんな》居るとも。妙も居るよ。大勢居るから気を丈夫に持て! ただ早瀬が見えん、残念だろう、己も残念だ。病気で入院をしていると云うから、致方《いたしかた》が無い。断念《あきら》めなよ。」
と、黒髪ばかりは幾千代までも、早やその下に消えそうな、薄白んだ耳に口を寄せて、
「未来で会え、未来で会え。未来で会ったら一生懸命に縋着《すがりつ》いていて離れるな。己のような邪魔者の入らないように用心しろ。きっと離れるなよ。先生なんぞ持つな。
己はこういう事とは知らなんだ。お前より早瀬の方が可愛いから、あれに間違いの無いように、怪我の無いようにと思ったが、可哀相な事をしたよ。
早瀬に過失《あやまち》をさすまいと思う己の目には、お前の影は彼奴《あいつ》に魔が魅《さ》しているように見えたんだ。お前を悪魔だと思った、己は敵《かたき》だ。間《なか》をせい[#「せい」に傍点]たって処女《きむすめ》じゃない。真《まこと》逢いたくば、どんなにしても逢えん事はない。世間体だ、一所に居てこそ不都合だが、内証なら大目に見てやろうと思ったものを、お前たちだけに義理がたく、死ぬまで我慢をし徹《とお》したか。可哀相に。……今更卑怯な事は謂《い》わない、己を怨め、酒井俊蔵を怨め、己を呪《のろ》えよ!
どうだ、自分で心を弱くして、とても活きられない、死ぬなんぞと考えないで、もう一度石に喰《くい》ついても恢復《なお》って、生樹《なまき》を裂いた己へ面当《つらあて》に、早瀬と手を引いて復讐《しかえし》をして見せる元気は出せんか、意地は無いか。
もう不可《いけ》まいなあ。」
と、忘れたようなお蔦の手を膝へ取って、熟《じっ》と見て、
「瘠《や》せたよ。一昨日《おととい》見た時よりまた半分になった。――これ、目を開《あ》きなよ、しっかりしな、己だ、分ったか、ああ先生だよ。皆《みんな》居る、妙も来ている。姉さん――小芳か、あすこに居るよ。
なぜ、お前は気を長くして、早瀬が己ほどの者になるのを待たん、己でさえ芸者の情婦《いろ》は持余しているんだ、世の中は面倒さな。
あの腰を突けばひょろつくような若い奴が、お前を内へ入れて、それで身を立って行かれるものか。共倒れが不便《ふびん》だから、剣突《けんつく》を喰わしたんだが、可哀相に、両方とも国を隔って煩らって、胸一つ擦《さす》って貰えないのは、お前たち何の因果だ。
さぞ待っているだろうな、早瀬の来るのを。あれが来るから、と云って、お前、昨夜《ゆうべ》髪を結《い》ったそうだ。ああ、島田が好《よ》く出来た、己が見たよ。」
と云う時、次の室《ま》で泣音《なくね》がした。続いてすすり泣く声が聞えたが、その真先《まっさき》だったのは、お蔦のこれを結った、髪結のお増であった。芸妓《げいこ》島田は名誉の婦《おんな》が、いかに、丹精をぬきんでたろう。
上らぬ枕を取交えた、括蒲団《くくりぶとん》に一《いち》が沈んで、後毛《おくれげ》の乱れさえ、一入《ひとしお
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