「君、困ったろう、母様は僕と違って、威儀堂々という風で厳粛だから、ははは、」
と肩を揺《ゆす》って、無邪気と云えば無邪気、余り底の無さ過ぎるような笑方。文学士と肩書の名刺と共に、新《あたらし》いだけに美しい若々しい髯《ひげ》を押揉《おしも》んだ。ちと目立つばかり口が大《おおき》いのに、似合わず声の優しい男で。気焔《きえん》を吐くのが愚痴のように聞きなされる事がある。もっとも、何をするにも、福、徳とだけ襟を数えれば済む身分。貧乏は知らないと云っても可《い》いから、愚痴になるわけはないが、自分の親を、その年紀《とし》で、友達の前で、呼ぶに母様をもってするのでも大略《あらかた》解る。酒に酔わずにアルコオルに中毒《あた》るような人物で。
年紀《とし》は二十七。従《じゅ》五位|勲《くん》三等、前《さき》の軍医監、同姓|英臣《ひでおみ》の長男、七人の同胞《きょうだい》の中《うち》に英吉ばかりが男子で、姉が一人、妹が五人、その中縁附いたのが三人で。姉は静岡の本宅に、さる医学士を婿にして、現に病院を開いている。
南町の邸は、祖母《おばあ》さんが監督に附いて、英吉が主人《あるじ》で、三人の妹が、それぞれ学校に通っているので、すでに縁組みした令嬢たちも、皆そこから通学した。別家のようで且つ学問所、家厳はこれに桐楊《とうよう》塾と題したのである。漢詩の嗜《たしなみ》がある軍医だから、何等か桐楊の出処があろう、但しその義|審《つまびらか》ならず。
英吉に問うと、素湯《さゆ》を飲むような事を云う。枝も栄えて、葉も繁ると云うのだろう、松柏も古いから、そこで桐楊だと。
説を為《な》すものあり、曰く、桐楊の桐《きり》は男児に較べ、楊《やなぎ》は令嬢《むすめ》たちに擬《なぞら》えたのであろう。漢皇|重色思傾国《いろをおもんじてけいこくをおもう》……楊家女有《ようかにじょあり》、と同一《おんなじ》字だ。道理こそ皆美人であると、それあるいは然《しか》らむ。が男の方は、桐に鳳凰《ほうおう》、とばかりで出処が怪しく、花骨牌《はなふだ》から出たようであるから、遂にどちらも信《あて》にはならぬ。
休題《さておき》、南町の桐楊塾は、監督が祖母さんで、同窓が嬢《むすめ》たちで、更に憚《はばか》る処が無いから、天下泰平、家内安全、鳳凰は舞い次第、英吉は遊び放題。在学中も、雨桐はじめ烏金《からすがね》の絶倍で、しばしばかいがん[#「かいがん」に傍点]に及んだのみか、卒業も二年ばかり後れたけれども、首尾よく学位を得たと聞いて、親たちは先ず占めた、びき[#「びき」に傍点]で、あおたん[#「あおたん」に傍点]の掴《つか》みだと思うと、手八《てはち》の蒔直《まきなお》しで夜泊《よどまり》の、昼流連《ひるながし》。祖母さんの命を承《う》けて、妹連から注進櫛の歯を挽《ひ》くがごとし。で、意見かたがたしかるべき嫁もあらばの気構えで、この度母親が上京したので、妙子が通う女学校を参観したと云うにつけても、意のある処が解せられる。
「どうだい、君、窮屈な思いをしたろう。」
親が参って、さぞ御迷惑、と悪気は無い挨拶《あいさつ》も、母様《かあさん》で、威儀で、厳粛で、窮屈な思いを、と云うから、何と豪《えら》いか、恐入ったろう、と極《き》めつけるがごとくに聞える。
例《いつも》の調子と知っているから、主税は別に気にも留めず、勿論、恐入る必要も無いので、
「姑に持とうと云うんじゃなし、ちっとも窮屈な事はありません。」
机の前に鉄拐胡坐《てっかあぐら》で、悠然と煙草を輪に吹く。
「しかし、君、その自《おのず》から、何だろう。」
とその何だか、火箸で灰を引掻《ひっか》いて、
「僕は窮屈で困る。母様がああだから、自から襟を正すと云ったような工合でね。……
直《じき》の妹なんざ、随分|脱兎《だっと》のごとしだけれど、母様の前じゃほとんど処女だね。」
と髯を捻《ひね》る。
十四
「で、何かね、母様《かあさん》は、」
と主税は笑いながら、わざと同一《おんなじ》ように母様と云って、煙管《きせる》を敲《はた》き、
「しばらく御滞在なんですかい。」
「一月ぐらい居るかも知れない、ああ、」と火鉢に凭掛《よりかか》る。
「じゃ当分謹慎だね。今夜なぞも、これから真直《まっすぐ》にお帰りだろう、どこへも廻りゃしますまいな。」
「うふふ、考えてるんだ。」とまた灰に棒を引く。
「相変らず辛抱が[#「辛抱が」は底本では「幸抱が」]出来ないか。」
「うむ、何、そうでもない。母様が可愛がってくれるから、来ている間は内も愉快だよ。賑《にぎやか》じゃあるし、料理が上手だからお菜《かず》も旨《うま》いし、君、昨夜《ゆうべ》は妹たちと一所に西洋料理を奢《おご》って貰った、僕は七皿喰った。ははは、」
と火箸
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