げて、骨の蒼《あお》いのがくッきり[#「くッきり」に傍点]見える、病人の仰向けに寝た胸へ、手を当てて熟《じっ》としたが、
「奥さん、」
と静《しずか》に呼ぶ。
道子が、取ったばかりの手拭を、引摺《ひきず》るように膝にかけて、振《ふり》を繕う遑《いとま》もなく、押並んで跪《ひざまず》いた時、早瀬は退《すさ》って向き直って、
「線香なんぞ買って――それから、種々《いろいろ》要るものを。」
「へい、宜《よ》うがす。」
ぼんやり戸口に立っていた小使は、その跣足《はだし》のまま飛んで出た。
と見れば、貞造の死骸《なきがら》の、恩愛に曳《ひ》かれて動くのが、筵に響いて身に染みるように、道子の膝は打震いつつ、幽《かすか》に唱名の声が漏れる。
「よく御覧なさいましよ。貴女も見せてお上げなさいよ。ああ、暗くって、それでは顔が、」
手洋燈を摺《ず》らして出したが、灯《あかり》が低く這って届かないので、裏が紺屋の物干の、破※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子《やぶれれんじ》の下に、汚れた飯櫃《めしびつ》があった、それへ載せて、早瀬が立って持出したのを、夫人が伸上るようにして、霑《うるみ》をもった目を見据え、現《うつつ》の面《おもて》で受取ったが、両方掛けた手の震えに、ぶるぶると動くと思うと、坂になった蓋《ふた》を辷《すべ》って、※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》と云う間に、袖に俯向《うつむ》いて、火を吹きながら、畳に落ちて砕けたではないか! 天井が真紫に、筵が赫《かっ》と赤くなった。
この明《あかり》で、貞造の顔は、活きて眼《まなこ》を開いたかと、蒼白《あおざめ》た鼻も見えたが、松明《たいまつ》のようにひらひらと燃え上る、夫人の裾の手拭を、炎ながら引掴《ひッつか》んで、土間へ叩き出した早瀬が、一大事の声を絞って、
「大変だ、帯に、」と一声。余りの事に茫《ぼう》となって、その時座を避けようとする、道子の帯の結目《むすびめ》を、引断《ひっき》れよ、と引いたので、横ざまに倒れた裳《もすそ》の煽《あお》り、乳《ち》のあたりから波打って、炎に燃えつと見えたのは、膚《はだえ》の雪に映る火をわずかに襦袢に隔てたのであった。トタンに早瀬は、身を投げて油の上をぐるぐると転げた。火はこれがために消えて、しばらくは黒白《あやめ》も分かず。阿部街道を戻り馬が、遥《はるか》に、ヒイインと嘶《いなな》く声。戸外《おもて》で、犬の吠ゆる声。
「可恐《おッそろし》い真暗ですね。」
品々を整えて、道の暗さに、提灯《ちょうちん》を借りて帰って来た、小使が、のそりと入ると、薄色の紋着を、水のように畳に流して、夫人はそこに伏沈んで、早瀬は窓をあけて、※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子に腰をかけて、吻《ほっ》として腕をさすっていた。――猛虎肉酔初醒時《もうこにくにようてはじめてさむるとき》。揩磨苛痒風助威《かようをかいましてかぜいをたすく》。
廊下づたい
四十三
家の業でも、気の弱い婦《おんな》であるから、外科室の方は身震いがすると云うので、是非なく行《ゆ》かぬ事になっているが、道子は、両親の注意――むしろ命令で、午後十時前後、寝際には必ず一度ずつ、入院患者の病室を、遍《あまね》く見舞うのが勤めであった。
その時は当番の看護婦が、交代に二人ずつ附添うので、ただ(御気分はいかがですか、お大事になさいまし、)と、だけだけれども、心優しき生来《うまれつき》の、自《おのず》から言外の情が籠るため、病者は少なからぬ慰安を感じて、結句院長の廻診より、道子の端麗な、この姿を、待ち兼ねる者が多い。怪しからぬのは、鼻風邪ごときで入院して、貴女のお手ずからお薬を、と唸《うな》ると云うが、まさかであろう。
で――この事たるや、夫の医学士、名は理順《りじゅん》と云う――院長は余り賛成はしないのだけれども、病人を慰めるという仕事は、いかなる貴婦人がなすっても仔細《しさい》ない美徳であるし、両親もたって希望なり、不問に附して黙諾の体でいる。
ト今夜もばたばたと、上草履の音に連れて、下階《した》の病室を済ました後、横田の田畝《たんぼ》を左に見て、右に停車場《ステイション》を望んで、この向は天気が好いと、雲に連なって海が見える、その二階へ、雪洞《ぼんぼり》を手にした、白衣《びゃくえ》の看護婦を従えて、真中《まんなか》に院長夫人。雲を開いたように階子段《はしごだん》を上へ、髪が見えて、肩、帯が露《あらわ》れる。
質素《じみ》な浴衣に昼夜帯を……もっともお太鼓に結んで、紅鼻緒に白足袋であったが、冬の夜《よ》なぞは寝衣《ねまき》に着換えて、浅黄の扱帯《しごき》という事がある。そんな時は、寝白粉《ねおしろい》の香も薫る、それはた異香|薫《く
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