に塗って、穂にあらわれて蔽《おお》われ果てぬ、尋常なその褄《つま》はずれを隠したのであった。
「もう、大丈夫、河野の令夫人《おくがた》とは見えやしない。」
と、框の洋燈《ランプ》を上から、フッ!
留南奇《とめき》を便《たより》に、身を寄せて、
「さあ、出掛けましょう。」
胸に当った夫人の肩は、誘わるるまで、震えていた。
この横町から、安東村へは五町に足りない道だけれども、場末の賤《しず》が家ばかり。時に雨もよいの夏雲の閉した空は、星あるよりも行方|遥《はる》かに、たまさか漏るる灯の影は、山路なる、孤家《ひとつや》のそれと疑わるる。
名門の女子深窓に養われて、傍《かたわら》に夫無くしては、濫《みだ》りに他と言葉さえ交えまじきが、今日朝からの心の裡《うち》、蓋《けだ》し察するに余《あまり》あり。
我は不義者の児《こ》なりと知り、父はしかも危篤《きとく》の病者。逢うが別れの今世《こんじょう》に、臨終《いまわ》のなごりを惜《おし》むため、華燭《かしょく》銀燈輝いて、見返る空に月のごとき、若竹座を忍んで出た、慈善市《バザア》の光を思うにつけても、横町の後暗さは冥土《よみじ》にも増《まさ》るのみか。裾端折り、頬被《ほほかぶり》して、男――とあられもない姿。ちらりとでも、人目に触れて、貴女は、と一言聞くが最後よ、活きてはいられない大事の瀬戸。辛《から》く乗切って行《ゆ》く先は……実《まこと》の親の死目である。道子が心はどんなであろう。
大巌山の幻が、闇《やみ》の気勢《けはい》に目を圧《おさ》えて、用水の音|凄《すさま》じく、地を揺《ゆ》るごとく聞えた時、道子は俤《おもかげ》さえ、衣《きぬ》の色さえ、有るか無きかの声して、
「夢ではないのでしょうかしら。宙を歩行《ある》きますようで、ふらふらして、倒れそうでなりません。早瀬さん、お袖につかまらして下さいまし。」
「しっかりと! 可《い》い塩梅《あんばい》に人通りもありませんから。」
人は無くて、軒を走る、怪しき狗《いぬ》が見えたであろう。紺屋の暖簾の鯛の色は、燐火《おにび》となって燃えもせぬが、昔を知ればひづめの音して、馬の形も有りそうな、安東村へぞ着きにける。
四十二
道子は声も※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》うように、
「ここは野原でございますか。」
「なぜ、貴女?」
「真中《まんなか》に恐しい穴がございますよ。」
「ああ、それは道端の井戸なんです。」
と透《すか》しながら早瀬が答えた。古井戸は地獄が開けた、大《おおい》なる口のごとくに見えたのである。
早瀬より、忍び足する夫人の駒下駄が、かえって戦《おのの》きに音高く、辿々《たどたど》しく四辺《あたり》に響いて、やがて真暗《まっくら》な軒下に導かれて、そこで留まった。が、心着いたら、心弱い婦《ひと》は、得《え》堪えず倒れたであろう、あたかもその頸《うなじ》の上に、例の白黒|斑《まだら》な狗《いぬ》が踞《うずくま》っているのである。
音訪《おとな》う間も無く、どたんと畳を蹴《け》て立つ音して、戸を開けるのと、ついその框《かまち》に真赤《まっか》な灯の、ほやの油煙に黒ずんだ小洋燈《こランプ》の見ゆるが同時で、ぬいと立ったは、眉の迫った、目の鋭い、細面《ほそおもて》の壮佼《わかもの》で、巾狭《はばぜま》な単衣《ひとえ》に三尺帯を尻下り、粋《いなせ》な奴《やっこ》を誰とかする、すなわち塾の(小使)で、怪! 怪! 怪! アバ大人を掏損《すりそ》こねた、万太《まんた》と云う攫徒《すり》である。
はたと主税と面《おもて》を合わせて、
「兄哥《あにい》!」
「…………」
「不可《いけね》えぜ。」と仮色《こわいろ》のように云った。
「何だ――馬鹿、お連がある。」
「やあ、先生、大変だ。」
「どう、大変。」
衝《つ》と入る。袂《たもと》に縋《すが》って、牲《にえ》の鳥の乱れ姿や、羽掻《はがい》を傷《いた》めた袖を悩んで、塒《ねぐら》のような戸を潜《くぐ》ると、跣足《はだし》で下りて、小使、カタリと後を鎖《さ》し、
「病人が冷くなったい。」
「ええ、」
「今駈出そうてえ処でさ。」
「医者か。」
「お医者は直ぐに呼んで来たがね、もう不可《いけね》えッて、今しがた帰ったんで。私《わっし》あ、ぼうとして坐っていましたが、何でもこりゃ先生に来て貰わなくちゃ、仕様がないと、今やっと気が附いて飛んで行こうと思った処で。」
「そんな法はない。死ぬなんて、」
と飛び込むと、坐ると同時《いっしょ》で、ただ一室《ひとま》だからそこが褥《しとね》の、筵《むしろ》のような枕許へ膝を落して、覗込《のぞきこ》んだが、慌《あわただ》しく居直って、三布蒲団《みのぶとん》を持上
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