《おも》に月輪を纏《まと》めた風情に、白やかな婦《おんな》の顔がそこを覗《のぞ》いた。
 門の扉《と》が開《あ》くでもなしに……続いて雪のような衣紋《えもん》が出て、それと映合《うつりあ》ってくッきりと黒い鬢《びん》が、やがて薄お納戸の肩のあたり、きらりと光って、帯の色の鮮麗《あざやか》になったのは――道子であった。
 門に立忍んで、密《そ》と扉を開けて、横から様子を伺ったものである。
 一目見ると、早瀬は、ずいと立って、格子を開けながら、手招ぎをする。と、立直って後姿になって、AB《アアベエ》横町の左右を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す趣であったが、うしろ向きに入って、がらがらと後を閉めると、三足ばかりを小刻みに急いで来て、人目の関には一重も多く、遮るものが欲しそうに、また格子を立てた。
「ようこそ、」と莞爾《にっこり》して云う。
 姉夫人は、口を、畳んだ手巾《ハンケチ》で圧《おさ》えたが、すッすッと息が忙《せわ》しく、
「誰方《どなた》も……」
「誰も。」
「小使さんは?」
 ともう馴染んだか尋ね得た。
「あれは朝っから、貞造の方へ遣ってあります。目の離せません容態ですから。」
「何から何まで難有《ありがと》う存じます……一人の親を……済みませんですねえ。」
 とその手巾が目に障る。
「済まないのは私こそ。でもよく会場が抜けられましたな。」
「はい、色艶が悪いから、控所の茶屋で憩《やす》むように、と皆さんが、そう言って下さいましたから、好《い》い都合に、点燈頃《あかりのつきごろ》の混雑紛れに出ましたけれど、宅の車では悪うございますから、途中で辻待のを雇いますと、気が着きませんでしたが、それが貴下《あなた》、片々|蠣目《かきめ》のようで、その可恐《こわ》らしい目で、時々振返っては、あの、幌《ほろ》の中を覗きましてね、私はどんなに気味が悪うござんしてしょう。やっとこの横町の角で下りて、まあ、御門まで参りましたけれども、もしかお客様でも有っては悪いから、と少時《しばらく》立っておりましたの。」
「お心づかい、お察し申します。」
 と頭《こうべ》を下げて、
「島山さんの、お菅さんには。」
「今しがた参りました。あんなに遅くまで――こちら様に。」
「いいえ。」
「それでは道寄りをいたしましたのでございましょう。灯《あかり》の点《つ》きます少し前に見えましたっけ、大勢の中でございますから、遠くに姿を見ましたばかりで、別に言《ことば》も交わさないで、私は急いで出て参りましたので。」
「成程、いや、お茶も差上げませんで失礼ですが、手間が取れちゃまたお首尾が悪いと不可《いけ》ません。直ぐに、これから、」
「どうぞそうなすって下さいまし、貴下、御苦労様でございますねえ。」
「御苦労どころじゃありません。さあ、お供いたしましょう。」
 ふと心着いたように、
「お待ちなさいよ、夫人《おくさん》。」

       四十一

 早瀬は今更ながら、道子がその白襟の品好く麗《うるわ》しい姿を視《なが》めて、
「宵暗《よいやみ》でも、貴女《あなた》のその態《なり》じゃ恐しく目に立って、どんな事でまたその蠣目の車夫なんぞが見着けまいものでもありません。ちょいと貴女|手巾《ハンケチ》を。」
 と慌《あわただ》しい折から手の触るも顧みず、奪うがごとく引取って、背後《うしろ》から夫人の肩を肩掛《ショオル》のように包むと、撫肩はいよいよ細って、身を萎《すく》めたがなお見|好《よ》げな。
 懐中《ふところ》からまた手拭《てぬぐい》を出して、夫人に渡して、
「姉《あね》さん冠《かぶ》りと云うのになさい、田舎者がするように。」
「どうせ田舎者なんですもの。」
 と打傾いて、髷《まげ》にちょっと手を当てて、
「こうですか。」白地を被《かぶ》って俯向《うつむ》けば、黒髪こそは隠れたれ、包むに余る鬢《びん》の馥《か》の、雪に梅花を伏せたよう。
 主税は横から右瞻左瞻《とみこうみ》て、
「不可《いけな》い、不可い、なお目立つ。貴女、失礼ですが、裾を端折《はしょ》って、そう、不可《いか》んな。長襦袢《ながじゅばん》が突丈《ついたけ》じゃ、やっぱり清元の出語《でがたり》がありそうだ。」
 と口の裡《うち》に独言《つぶや》きつつ、
「お気味が悪くっても、胸へためて、ぐっと上げて、足袋との間を思い切って。ああ、おいたわしいな。」
「厭《いや》でございますね。」
「御免なさいよ。」
 と言うが疾《はや》いか、早瀬の手は空を切って、体を踞《しゃが》んだと思うと、
「あれ、」
 かっとなって、ふらふらと頭《つむり》重く倒れようとした――手を主税の肩に突いて、道子はわずかに支えたが、早瀬の掌《たなそこ》には逸早く壁の隅なる煤《すす》を掬《すく》って、これを夫人の脛《はぎ》
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