ん》ずるがごとく、患者は御来迎、と称《とな》えて随喜渇仰。
 また実際、夫人がその風采《とりなり》、その容色《きりょう》で、看護婦を率いた状《さま》は、常に天使のごとく拝まれるのであったに、いかにやしけむ、近い頃、殊に今夜あたり、色艶|勝《すぐ》れず、円髷《まるまげ》も重そうに首垂《うなだ》れて、胸をせめて袖を襲《かさ》ねた状は、慎ましげに床し、とよりは、悄然《しょうぜん》と細って、何か目に見えぬ縛《いましめ》の八重の縄で、風に靡《なび》く弱腰かけて、ぐるぐると巻かれたよう。従って、前後を擁した二体の白衣も、天にもし有らば美しき獄卒の、法廷の高く高き処へ夫人を引立てて来たようである。
 扉《ドア》を開放《あけはな》した室の、患者無しに行抜けの空は、右も左も、折から真白《まっしろ》な月夜で、月の表には富士の白妙《しろたえ》、裏は紫、海ある気勢《けはい》。停車場の屋根はきらきらと露が流れて輝く。
 例に因って、室々へ、雪洞が入り、白衣が出で、夫人が後姿になり、看護婦が前に向き、ばたばたばた、ばたばたと規律正しい沈んだ音が長廊下に断えては続き、処々月になり、また雪洞がぽっと明《あか》くなって、ややあって、遥かに暗い裏階子《うらばしご》へ消える筈《はず》のが、今夜は廊下の真中《まんなか》を、ト一列になって、水彩色《みずさいしき》の燈籠の絵の浮いて出たように、すらすらこなたへ引返《ひっかえ》して来て、中程よりもうちっと表階子へ寄った――右隣が空いた、富士へ向いた病室の前へ来ると、夫人は立留って、白衣は左右に分れた。
 順に見舞った中に、この一室だけは、行きがけになぜか残したもので。……
 と見ると胡粉《ごふん》で書いた番号の札に並べて、早瀬主税と記してある。
 道子は間《なか》に立って、徐《おもむろ》に左右を見返り、黙って目礼をして、ほとんど無意識に、しなやかな手を伸ばすと、看護婦の一人が、雪洞を渡して、それは両手を、一人は片手を、膝のあたりまで下げて、ひらりと雪の一団《ひとかたまり》。
 ずッと離れて廊下を戻る。
 道子は扉《ドア》に吸込まれた。ト思うと、しめ切らないその扉の透間から、やや背屈《せかが》みをしたらしい、低い処へ横顔を見せて廊下を差覗《さしのぞ》くと、表階子の欄干《てすり》へ、雪洞を中にして、からみついたようになって、二人|附着《くッつ》いて、こなたを見ていた白衣が、さらりと消えて、壇に沈む。

       四十四
 
 寝台《ねだい》に沈んだ病人の顔の色は、これが早瀬か、と思うほどである。
 道子は雪洞を裾に置いて、帯のあたりから胸を仄《ほの》かに、顔を暗く、寝台に添うて彳《たたず》んで、心《しん》を細めた洋燈《ランプ》のあかりに、その灰のような面《おもて》を見たが、目は明かに開いていた。
 ト思うと、早瀬に顔を背けて、目を塞いだが、瞳は動くか、烈しく睫毛《まつげ》が震えたのである。
 ややあって、
「早瀬さん、私が分りますか。」
「…………」
「ようよう今日のお昼頃から、あの、人顔がお分りになるようにおなんなさいましたそうでございますね。」
 「お庇様《かげさま》で。」
 と確《たしか》に聞えた。が、腹でもの云うごとくで、口は動かぬ。
「酷《ひど》いお熱だったんでございますのねえ。」
「看護婦に聞きました。ちょうど十日間ばかり、全《まる》ッきり人事不省で、驚きました。いつの間にか、もう、七月の中旬《なかば》だそうで。」と瞑《ねむ》ったままで云う。
「宅では、東京の妹たちが、皆《みんな》暑中休暇で帰って参りました。」
 少し枕を動かして、
「英吉君も……ですか。」
「いいえ、あの人だけは参りませんの。この頃じゃ家《うち》へ帰られないような義理になっておりますから、気の毒ですよ。
 ああ、そう申せば、」と優しく、枕許の置棚を斜《ななめ》に見て、
「貴下は、まあ、さぞ東京へお帰りなさらなければならなかったんでございましょうに。あいにく御病気で、ほんとうに間が悪うございましたわね。酒井様からの電報は御覧になりましたの?」
「見ました、先刻はじめて、」
 と調子が沈む。
「二通とも、」
「二通とも。」
「一通はただ(直ぐ帰れ。)ですが、二度目のには、ツタビョウキ(蔦病気)――かねて妹から承っておりました。貴下の奥さんが御危篤《ごきとく》のように存じられます。御内の小使さん、とそれに草深の妹とも相談しまして、お枕許で、失礼ですが、電報の封を解きまして、私の名で、貴下がこのお熱の御様子で、残念ですがいらっしゃられない事を、お返事申して置きました。ですが、まあ、何という折が悪いのでございましょう。ほんとうにお察し申しております。」
「……病気が幸です。達者で居たって、どの面《つら》さげて、先生はじめ、顔が合されますもんですか。」

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