「御覧なさい」は底本では「御覧さない」]、痩《や》せたでしょう。この頃じゃ、こちらに、どんな事でもあるように、島山(理学士)を見ると、もうね、身体《からだ》が萎《すく》むような事があるわ。土間へ駈下りて靴の紐を解いたり結んだりしてやってるじゃありませんか。
跪《ひざまず》いて、夫の足に接吻《キッス》をする位なものよ。誰がさせるの、早瀬さん。――貴下の意地ひとつじゃありませんか。
ちっとは察して、肯いてくれたって、満更罰は当るまいと、私思うんですがね。」
机に凭《もた》れて、長くなって笑いながら聞いていた主税が、屹《きっ》と居直って、
「じゃ貴女は、御自分に面じて、お妙さんを嫁に欲《ほし》いと言うんですか。」
「まあ……そうよ。」
「そう、それでは色仕掛になすったんだね。」
三十七
「怒ったの、貴下、怒っちゃ厭よ、私。貴下はほんとうにこの節じゃ、どうして、そんなに気が強くなったんだろうねえ。」
「貴女が水臭い事を言うからさ。」
「どっちが水臭いんだか分りはしない。私はまさか、夜《よる》内を出るわけには行《ゆ》かず、お稽古に来たって、大勢|入込《いれご》みなんだもの。ゆっくりお話をする間も無いじゃありませんか。
過日《いつか》何と言いました。あの合歓の花が記念だから、夜中にあすこへ忍んで行く――虫の音や、蛙《かわず》の声を聞きながら用水越に立っていて、貴女があの黒塀の中から、こう、扱帯《しごき》か何ぞで、姿を見せて下すったら、どんなだろう。花がちらちらするか、闇《やみ》か、蛍か、月か、明星か。世の中がどんな時に、そんな夢が見られましょう――なんて串戯《じょうだん》云うから、洗濯をするに可いの、瓜が冷せて面白いのッて、島山にそう云って、とうとうあすこの、板塀を切抜いて水門を拵《こしら》えさせたんだわ。
頭痛がしてならないから、十畳の真中《まんなか》へ一人で寝て見たいの、なんのッて、都合をするのに、貴下は、素通りさえしないじゃありませんか。」
「演劇《しばい》のようだ。」
と低声《こごえ》で笑うと、
「理想実行よ。」と笑顔で言う。
「どうして渡るんです。」
「まさか橋をかける言種《いいぐさ》は、貴下、無いもの。」
「だから、渡られますまい。」
「合歓の樹の枝は低くってよ。掴《つかま》って、お渡んなさいなね。」
「河童《かっぱ》じゃあるまいし、」
「ほほほほ、」
と今度は夫人の方が笑い出したが。
「なにしろ、貴下は不実よ。」
「何が不実です。」
「どうかして下さいな。」
――更《あらたま》って――
「妙子さんを。」
「ですから色仕掛けか、と云うんです。」
「あんな恐い顔をして、(と莞爾《にっこり》して。)ほんとうはね、私……自ら欺《あざ》むいているんだわ。家のために、自分の名誉を犠牲《ぎせい》にして、貴下から妙子さんを、兄さんの嫁に貰おう、とそう思ってこちらへ往来《ゆきき》をしているの。
でなくって、どうして島山の顔や、母様の顔が見ていられます。第一、乳母《ばあや》にだって面《おもて》を見られるようよ。それにね、なぜか、誰よりも目の見えない娘が一番恐いわ。母さん、と云って、あの、見えない目で見られると、悚然《ぞっと》してよ。私は元気でいるけれど、何だか、そのために生身を削られるようで瘠《や》せるのよ。可哀相だ、と思ったら、貴下、妙子さんを下さいな。それが何より私の安心になるんです。……それにね、他《ほか》の人は、でもないけれど、母様がね、それはね、実に注意深いんですから、何だか、そうねえ、春の歌留多《かるた》会時分から、有りもしない事でもありそうに疑《うたぐ》っているようなの。もしかしたら、貴下私の身体《からだ》はどうなると思って? ですから妙子さんさえ下されば、有形にも無形にも立派な言訳になるんだわ。ひょっとすると、母様の方でも、妙子さんの為にするのだ、と思っているのかも知れなくってよ。顔さえ見りゃ、(私がどうかして早瀬さんに承知させます。)と、母様が口を利かない先にそう言って置くから。よう、後生だから早瀬さん。」
言い言い、縋《すが》るように言う。
「詰らん言《こと》を。先生のお嬢さんを言訳に使って可いもんですか。」
「そうすると、私もう、母さんの顔が見られなくなるかも知れませんよ。」
「僕だって活きて二度と、先生の顔が見られないように……」と思わず拳《こぶし》を握ったのを、我を引緊《ひきし》められたごとくに、夫人は思い取って、しみじみ、
「じゃ、私の、私の身体はどうなって?」
「訳は無い、島山から離縁されて、」
「そんな事が、出来るもんですか。」
「出来ないもんですか。当前《あたりまえ》だ、」
と自若として言うと、呆れたように、また……莞爾《にっこり》、
「貴下はどうしてそうだろう。」
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