何です、ありゃ。……姉さんにお気の毒で、傍《そば》で聞いていられやしない。」
「だって事実だもの。病院に入切《はいりきり》で居ながら、いつの何時《なんどき》には、姉さんが誰と話をしたッて事、不残《のこらず》旦那様御存じなの、もう思召《おぼしめし》ったらないんですからね。
それでも大事にして置かないと、院長は家中《うちじゅう》の稼ぎ人で、すっかり経済を引受けてるんだわ。お庇様《かげさま》で一番末の妹の九ツになるのさえ、早や、ちゃんと嫁入支度が出来てるのよ。
道楽一ツするんじゃなし、ただ、姉さんを楽《たのし》みにして働いているんですからね。ちっとでも怒らしちゃ大変なのだから、貴下も気をつけて下さらなくっちゃ困るわ。」
「何を云ってるんです、面白くもない。」
「今の様子ッたら何です、厭《いや》に御懇《ごねんごろ》ね。そして肩を持つことね。油断もすきもなりはしない。」
「可い加減になさい。串戯《じょうだん》も、」
「だって姉さんが、どんな事があればッたって、男と対向《さしむか》いで五分間と居る人じゃないのよ。貴下は口前が巧くって、調子が可いから、だから坐り込んでいるんじゃありませんか。ほんとうに厭よ。貴下浮気なんぞしちゃ、もう、沢山だわ。」
「まるでこりゃ、人情本の口絵のようだ。何です、対向った、この体裁は。」
三十六
しめやかな声で、夫人が――
「貴下……どうするのよ。」
「…………」
「私がこれほど願っても、まだ妙子さんを兄さん(英吉)には許してくれないの。今までにもどんなに頼んだか知れないのに、それじゃ貴下、あんまりじゃありませんか。
去年から口説《くどき》通しなんだわ。貴下がはじめて、静岡《こちら》へ来て、私と知己《ちかづき》になったというのを聞いて、(精一杯|御待遇《おもてなし》をなさい。)ッて東京から母さんが手紙でそう云って寄越したのも、酒井さんとの縁談を、貴下に調えて頂きたければこそだもの。
母さんだって、どのくらい心配しているか知れないんだわ。今まで、ついぞ有った験《ためし》は無い。こちらから結婚を申込んで刎《は》ねられるなんて、そんな事――河野家の不名誉よ、恥辱ッたらありませんものね。
兄さんも、どんなにか妙子さんを好いていると見えて、一体が遊蕩《あそび》過ぎる処へ、今度の事じゃ失望して、自棄《やけ》気味らしいのよ、遣り方が。自分で自分を酒で殺しちゃ、厭じゃありませんか、まあ、」
と一際|低声《こごえ》で、
「ちょいと、いかな事《こッ》ても小待合へなんぞ倒込むんですって。監督《おめつけ》の叔父さんから内々注意があるもんだから、もう疾《とっ》くに兄さんへは家《うち》でお金子《かね》を送らない事にして、独立で遣れッて名義だけれども、その実、勘当同様なの。
この頃じゃ北町(桐楊塾)へも寄り着かないんですって。
だってどこに転がっていたって、皆《みんな》お金子が要るんでしょう。どこから出て? いずれ借りるんだわ。また河野の家の事を知っていて、高利で貸すものがあるんだから困っちまう。千と千五百と纏《まとま》ったお金子で、母様が整理を着けたのも二度よ。洋行させる費用に、と云って積立ててあった兄さんの分は、とうの昔無くなって、三度目の時には皆私たち妹の分にまで、手がついたんじゃありませんか。
妙子さんの話がはじまってからは、ちょうど私も北町へ行っていて知っているけれど、それは、気の毒なほど神妙になったのに。……
もともと気の小さい、懐育ちのお坊ちゃんなんだから、遊蕩《あそび》も駄々で可《よ》かったんだけれど、それだけにまた自棄になっちゃ乱暴さが堪《たま》らないんだもの。
病院の義兄《にいさん》は養子だし、大勢の兄弟|中《なか》に、やっと学位の取れた、かけ替えのない人を、そんなにしてしまっちゃ、それは家《うち》でもほんとうに困るのよ。
早瀬さん、貴下の心一つで、話が纏まるんじゃありませんか。私が頼むんだから助けると思って肯《き》いて頂戴、ねえ……それじゃ、あんまり貴下薄情よ。」
「ですから、ですから。」
と圧《おさ》えるように口を入れて、
「決《け》して厭だとは言いません。厭だとは言いやしない。これからでも飛んで行って、先生に話をして結納を持って帰りましょう。」
事もなげに打笑って、
「それじゃ反対《あべこべ》だった。結納はこちらから持って行くんでしたっけ。」
「そのかわりまた、(あの安東村の紺屋の隣家《となり》の乞食小屋で結婚式を挙げろ)ッて言うんでしょう。貴下はなぜそう依怙地《いこじ》に、さもしいお米の価《ね》を気にするようなことを言うんだろう。
ほんとうに串戯《じょうだん》ではないわ! 一家の浮沈と云ったような場合ですからね。私もどんなに苦労だか知れないんだもの。御覧なさい[#
前へ
次へ
全107ページ中88ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング