ども、御主人の医学士は、非常に貴女を愛していらっしゃるために、恐ろしく嫉妬深い、と島山さんのに、聞きました。
 ほとんど当惑していた処へ、今日のおいでは実に不思議と云っても可い。一言(父よ。)とおっしゃって、とそれまでも望むんじゃないのです。弥陀《みだ》の白光《びゃっこう》とも思って、貴女を一目と、云うのですから、逢ってさえ下されば、それこそ、あの、屋中《うちじゅう》真黒《まっくろ》に下った煤《すす》も、藤の花に咲かわって、その紫の雲の中に、貴女のお顔を見る嬉しさはどんなでしょう。
 そうなれば、不幸極まる、あわれな、情ない老人が、かえって百万人の中に一人も得られない幸福なものとなって、明かに端麗な天人を見ることを得て、極楽往生を遂げるんです、――夫人《おくさん》。」
 と云った主税の声が、夫人の肩から総身へ浸渡るようであった。
「貞造は、貴女の実《うみ》の父親で、またある意味から申すと、貴女の生命の恩人ですよ。」
「は……い。」
「会は混雑しましょう。若竹座は大変な人でしょう。それに夜も更《ふ》けると申しますから、人目を紛らすのに仔細《しさい》ありません。得難い機会です。私《わたくし》がお供をして、ちょっと見舞に参るわけにはまいりませんか。」
 と片手に燐寸《マッチ》を持ったと思うと、片手が衝《つ》と伸びて猶予《ため》らわず夫人の膝から、古手紙を、ト引取って、
「一度お話した上は、たとい貴女が御不承知でも、もうこんなものは、」
 と※[#「火+發」、316−3]《ぱっ》と火を摺《す》ると、ひらひらと燃え上って、蒼くなって消えた。が、靡《なび》きかかる煙の中に、夫人の顔がちらちらと動いて、何となく、誘われて膝も揺ら揺ら。
 居坐《いずまい》を直して、更《あらた》まって、
「お連れ下さいまし、どうぞ。」
 がらがらと格子の開く音。それ、言わぬことか。早や座に見えた菅子の姿。眩《まばゆ》いばかりの装いで、坐りもやらず、
「まあ、姉さん!」


     私語《さゞめごと》

       三十五

「もう遅いわ、姉さん、早くいらっしゃらないでは、何をしているの、」
 と菅子は立ったままで急込《せきこ》んで云う。戸外《おもて》の暑さか、駈込んだせいか、赫《かっ》と逆上《のぼ》せた顔の色。
 胸打騒げる姉夫人、道子がかえって物静かに、
「先刻《さっき》から待っていたんですよ。」
「待っていたって、私は方々に用があるんだもの、さっさと行って下さらないじゃ、」
「何ですねえ、邪険な、和女《あなた》を待っていたんですよ。来がけに草深へも寄ったのよ。一所に連れて行って欲しいと思って。――さあ、それでは行きましょうね。」
「私は用があるわ。」
「寄道をするんですか。」
「じゃ……ないけども、これから、この早瀬さんと一議論して、何でも慈善会へ引張り出すんですから手間が取れてよ。」
 とまだ坐りもせぬ。
 主税は腕組をしながら、
「はははは、まあ、貴女も、お聞きなさい、お菅さんの議論と云うのを。いくら僕を説いたって、何にもなりゃしないんですから。」
「承わって参りましょうか。」
 と姉夫人が立ちかけた膝をまた据えて、何となく残惜そうな風が見えると、
「早くいらっしゃらなくっちゃ……私は可《い》いけれども、姉さん、貴女は兄さん(医学士)がやかましいんだもの、面倒よ。」
 と見下《みおろ》す顔を、斜めに振仰いだ、蒼白《あおじろ》い姉の顔に、血が上《のぼ》って、屹《きっ》となったが、寂しく笑って、
「ああ、そうね、私は前《さき》に参りましょう。会場の様子は分らないけれど、別にまごつくような事はありますまいから。」
 とおとなしく云って、端然《きちん》と会釈して、
「お邪魔をいたしましてございます。」とちょいと早瀬の目を見たが――双方で瞬きした。
「まあ、御一所が宜しいじゃありませんか。お菅さんもそうなさい。」
「いいえ、そうしてはおられません、もっと、」
 と声に力が籠って、
「種々《いろいろ》お話を伺いとう存じますけれども……」
「私も、直《じき》だわ。」
「待っていますよ。」
 と優しい物越、悄々《しおしお》と出る後姿。主税は玄関へ見送って、身を蔽《おおい》にして、密《そっ》とその袂《たもと》の端を圧《おさ》えた。
「さようなら!」
 勢《いきおい》よく引返すと、早や門の外を轣轆《れきろく》として車が行く。
「暑い、暑い、どうも大変に暑いのね。」
 菅子はもうそこに、袖を軽く坐っていたが、露の汗の悩ましげに、朱鷺《とき》色縮緬の上〆《うわじめ》の端を寛《ゆる》めた、辺《あたり》は昼顔の盛りのようで、明《あかる》い部屋に白々地《あからさま》な、衣《きぬ》ばかりが冷《すず》しい蔭。
「久振だわね。」
「久振じゃないじゃありませんか。今の言種《いいぐさ》は
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