河野さんは、お家が医者だから。……そうでないと、大抵九月児は育たんものだと申します。また旧弊な連中《れんじゅう》は、戦争で人が多く死んだから、生れるのが早い、と云ったそうです。
 名誉に、とお思いなすったか、それとも最初《はじめて》の御出産で、お喜びの余りか、英臣さんは現に貴女の御父上《おとうさん》だ。
 貞造は、無事に健かに産れた児の顔を一目見ると、安心をして、貴女の七夜の御祝いに酔ったのがお残懐《なごり》で、お暇を頂いて、お邸を出たんです。
 朝晩お顔を見ていちゃ、またどんな不了簡《ふりょうけん》が起るまいものでもない、という遠慮と、それに肺病の出る身体《からだ》、若い内から僂麻質《リョウマチス》があったそうで。旁々《かたがた》お邸を出るとなると、力業《ちからわざ》は出来ず、そうかと云って、その時分はまだ達者だった、阿母《おふくろ》を一人養わなければならないもんですから、奥さんが手切《てぎれ》なり心着《こころづけ》なり下すった幾干《いくら》かの金子《かね》を資本《もとで》にして、初めは浅間の額堂裏へ、大弓場を出したそうです。
 幸い商売が的に当って、どうにか食って行かれる見込みのついた処で、女房を持ったんですがね。いや、罰《ばち》は覿面《てきめん》だ。境内へ多時《しばらく》かかっていた、見世物師と密通《くッつ》いて、有金を攫《さら》って遁《に》げたんです。しかも貴女、女房が孕《はら》んでいたと云うじゃありませんか。」
「まあ、」
 と、夫人は我知らず嘆息した。
「忌々しい、とそこで大弓の株を売って、今度は安東村の空地を安く借りて、馬場を拵《こさ》えて、貸馬を行《や》ったんですな。
 貴女、それこそ乳母《おんば》日傘で、お浅間へ参詣にいらしった帰り途、円い竹の埒《らち》に掴《つかま》って、御覧なすった事もありましょう。道々お摘みなすった鼓草《たんぽぽ》なんぞ、馬に投げてやったりなさいましたのを、貞造が知っています。
 阿母《おふくろ》が死んだあとで、段々馬場も寂れて、一斉《いっとき》に二|頭《ひき》斃死《おち》た馬を売って、自暴《やけ》酒を飲んだのが、もう飲仕舞で。米も買えなくなる、粥《かゆ》も薄くなる。やっと馬小屋へ根太を打附《ぶッつ》けたので雨露を凌《しの》いで、今もそこに居るんですが、馬場のあとは紺屋の物干になったんです。……」

       三十四

「私《わたくし》は不思議な縁で、去年静岡へ参って……しかもその翌日でした。島山さんのと、浅間を通った時、茶店へ休んで、その貞造に逢ったんです。それからこういう秘密な事を打明けられるまで、懇意になって、唯今の処じゃ、是非貴女のお耳へ入れなくってはなりませんほど、老人|危篤《きとく》なのでございます。
 私でさえ、これは一番《ひとつ》貴女に願って、逢ってやって頂きたいと思いましたから、今迄|幾度《いくたび》か病人に勧めても見ましたけれども、いやいや、何にも御存じない貴女に、こういう事をお聞かせ申すのは、足を取って地獄へ引落すようなもの。あとじゃ月も日も、貴女のお目には暗くなろう。お最惜《いとし》い、と貞造が頭《かぶり》を掉《ふ》ります。
 道理《もっとも》だと控えました。もっとも私も及ばずながら医師《いしゃ》の世話もしたんです、薬も飲ませました。名高い医学士でお在《いで》なさるから一ツ河野さんの病院へ入院してはどうか、余所《よそ》ながらお道さんのお顔を見られようから、と云いましたが、もっての外だ、と肯《き》きません。
 清い者です。
 人の悪い奴で御覧なさい、対手《あいて》が貴女の母様《おっかさん》で、そのお手紙が一通ありゃ、貞造は一生涯朝から刺身で飲めるんですぜ。
 またちっとでも強情《ねだ》りがましい了見があったり、一銭たりとも御心配を掛《かけ》るような考《かんがえ》があるんなら、私は誓って口は利かんのです。
 そうじゃない! ただ一目拝みたいと云う、それさえ我慢をし抜いた、それもです……老人自分じゃ、まだ治らないとは思っていなかったからなので。煎じて飲むのがまだるッこし、薬鍋の世話をするものも無いから、薬だと云う芭蕉の葉を、青いまんまで噛《かじ》ったと言います――
 その元気だから、どうかこうか薬が利いて、一度なんざ、私と一所に安倍川へ行って餅を食べて茶を喫《の》んで帰った事もあったんですが、それがいいめ[#「いいめ」に傍点]を見せたんで、先頃からまたどッと褥《とこ》に着いて、今は断念《あきら》めた処から、貴女を見たい、一目逢いたいと、現《うつつ》に言うようになったんです。
 容態が容態ですから、どうぞ息のある内にと心配をしていたんですが、人に相談の出来る事じゃなし、御宅へ参ってお話をしようにも、こりゃ貴女と対向《さしむか》いでなくっては出来ますまい。
 失礼だけれ
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