御入用なんでございますか。」
 と胸へ、しなやかに手を当てたは、次第に依っては、直《すぐ》にも帯の間へ辷《すべ》って、懐紙《ふところがみ》の間から華奢《きゃしゃ》な(嚢物《ふくろもの》)の動作《こなし》である。道子はしばしば妹の口から風説《うわさ》されて、その暮向《くらしむき》を知っていた。
 ト早瀬の声に力が入って、
「金子《かね》にも何にも、私《わたくし》が、自分の事ではありません。」
「まあ、失礼な事を云って、」
 と襟を合わせて面《おもて》を染め、
「どうしましょう私は。では貴下の事ではございませんので。」
「ええ、勿論、救って頂きたい者は他《ほか》にあるんです。」
「どうぞ、あの、それは島山のに御相談下さいまし。私もまた出来ますことなら、蔭で――お手伝いいたしましょうけれど、河野(医学士)が、喧《やかま》しゅうございますから。」
 ……差俯向《さしうつむ》いて物寂しゅう、
「私が自分では、どうも計らい兼ねますの。それには不調法でもございますし……何も、妹の方が馴れておりますから。」
「いや、貴女でなくては不可《いか》んのです。ですから途方に暮れます。その者は、それにもう死にかかった病人で、翌日《あす》も待たないという容体なんです。
 六十近い老人で、孫子はもとより、親類《みより》らしい者もない、全然《まるっきり》やもめで、実際形影相弔うというその影も、破蒲団《やぶれぶとん》の中へ消えて、骨と皮ばかりの、その皮も貴女、褥摺《とこず》れに摺切れているじゃありませんか。
 日の光も見えない目を開いて、それでただ一目、ただ一目、貴女、夫人《おくさん》の顔が見たいと云います。」
「ええ、」
「御介抱にも及びません、手を取って頂くにも及びません、言《ことば》をお交わし下さるにも及びません、申すまでもない、金銭の御心配は決して無いので。真暗《まっくら》な地獄の底から一目貴女を拝むのを、仏とも、天人とも、山の端《は》の月の光とも思って、一生の思出に、莞爾《にっこり》したいと云うのですから、お聞届け下さると、実に貴女は人間以上の大善根をなさいます。夫人《おくさん》、大慈大悲の御心持で、この願いをお叶え下さるわけには参りませんか、十分間とは申しません。」
 と、じりじりと寄ると、姉夫人、思わず膝を進めつつ、
「どこの、どんな人でございますの。」
「直《じ》きこの安東《あんとう》村に居るんです。貞造と申して、以前御宅の馬丁《べっとう》をしたもので、……夫人《おくさん》、貴女の、実の……御父上《おとうさん》……」

       三十三

「その……手紙を御覧なさいましたら、もうお疑はありますまい。それは貴女の御父上《おとうさん》、英臣《ひでおみ》さんが、御出征中、貴女の母様《おっかさん》が御宅の馬丁貞造と……」
 早瀬はちょっと言《ことば》を切って……夫人がその時、わななきつつ持つ手を落して、膝の上に飜然《ひらり》と一葉、半紙に書いた女文字。その玉章《たまずさ》の中には、恐ろしい毒薬が塗籠《ぬりこ》んででもあったように、真蒼《まっさお》になって、白襟にあわれ口紅の色も薄れて、頤《おとがい》深く差入れた、俤《おもかげ》を屹《きっ》と視て、
「……などと云う言《ことば》だけも、貴女方のお耳へ入れられる筈《はず》のものじゃありません、けれども、差迫った場合ですから、繕って申上げる暇《いとま》もありません。
 で、そのために貴女がおできなすったんで、まだお腹《はら》にいらっしゃる間には、貴女の母様《おっかさん》が水にもしようか、という考えから、土地に居ては、何かにつけて人目があると、以前、母様をお育て申した乳母が美濃|安八《あはち》の者で、――唯今島山さんの玄関に居る書生は孫だそうです。そこへ始末をしに行ってお在《いで》なすった間に、貞造へお遣わしなすったお手紙なんです。
 馬丁はしていたが、貞造はしかるべき禄を食《は》んだ旧藩の御馬廻の忰《せがれ》で、若気の至りじゃあるし、附合うものが附合うものですから、御主人の奥様《おくさん》と出来たのを、嬉しい紛れ、鼻で指をさして、つい酒の上じゃ惚気《のろけ》を云った事もあるそうですが、根が悪人ではないのですから、児《こ》をなくすという恐《おそろし》い相談に震い上って、その位なら、御身分をお棄てなすって、一所に遁《に》げておくんなさい。お肯入《ききい》れ無く、思切った業《わざ》をなさりゃ、表向きに坐込む、と変った言種《いいぐさ》をしたために、奥さんも思案に余って、気を揉んでいなすった処へ、思いの外用事が早く片附いて、英臣さんが凱旋《がいせん》でしょう。腹帯にはちっと間が在ったもんだから、それなりに日が経《た》って、貴女は九月児《ここのつきご》でお在《いで》なさる。
 が、世間じゃ、ああ、よくお育ちなすった、
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