三十八

「どうもこうもありはしません、それが当前じゃありませんか。義、周の粟を食《くら》わずとさえ云うんだ。貴女、」
 と主税は澄まして言い懸けたが、常《ただ》ならぬ夫人の目の色に口を噤《つぐ》んだ。菅子は息急《いきぜわ》しい胸を圧《おさ》えるのか、乳《ち》の上へ手を置いて、
「何だって、そりゃあんまりだわ、早瀬さん、」
 と、ツンとする。
「不都合ですとも! 島山さんが喜ばないのに、こうして節々おいでなさるんです。
 それでいて、家庭の平和が保てよう法は無い。実はこうこうだ、と打明けて、御主人の意見にお任せなさい。私もまた卑怯な覚悟じゃありません。事実明かに、その人の好まない自分の許《とこ》へ令夫人《おくがた》をお寄せ申すんだから、謹んで島山さんの思わくに服するんだ。
 だから貴女もそうなさい。懊悩《おうのう》も煩悶《はんもん》も有ったもんか。世の中には国家の大法を犯し、大不埒《だいふらち》を働いて置いて、知らん顔で口を拭いて澄ましていようなどと言う人があるが、間違っています。」
 夫人はこれを戯《たわむれ》のように聞いて、早瀬の言《ことば》を露も真《まこと》とは思わぬ様子で、
「戯談《じょうだん》おっしゃいよ! 嘘にも、そんな事を云って、事が起ったら子供たちはどうするの?」
 と皆まで言わせず、事も無げに答えた。
「無論、島山さんの心まかせで、一所に連れて出ろと、言われりゃ連れて出る。置いて行けとなら、置いて……」
「暢気《のんき》で怒る事も出来はしない。身に染みて下さいな、ね……」
「何が暢気だろう、このくらい暢気でない事はない。小使と私と二人口でさえ、今の月謝の収入じゃ苦しい処へ、貴女方親子を背負《しょ》い込むんだ。静岡は六升代でも痩腕にゃ堪《こた》えまさ。」
 余《あまり》の事と、夫人は凝《じっ》と瞻《みまも》って、
「私がこんなに苦労をするのに、ほんとに貴下は不実だわ。」
「いざと云う時、貴女を棄てて逐電《ちくてん》でもすりゃ不実でしょう。胴を据えて、覚悟を極《き》めて、あくまで島山さんが疑って、重ねて四ツにするんなら、先へ真二《まっぷた》ツになろうと云うのに、何が不実です。私は実は何にも知らんが、夫人《おくさん》が御勝手に遊びにおいでなさるんだなんて言いはしない。」
「そう云ってしまっては、一も二も無いけれど。」
「また、一も二も無いんですから、」
「だって世の中は、そう貴下の云うようには参りませんもの。」
「ならんのじゃない、なる、が、勝手にせんのだ。恋愛は自由です、けれども、こんな世の中じゃ罪になる事がある。盗賊《どろぼう》は自由かも知れん、勿論罪になる。人殺、放火《つけび》、すべて自由かも知れんが、罪になります。すでにその罪を犯した上は、相当の罰を受けるのがまた当前《あたりまえ》じゃありませんか。愚図々々《ぐずぐず》塗秘《ぬりかく》そうとするから、卑怯未練な、吝《けち》な、了見が起って、他《ひと》と不都合しながら亭主の飯を食ってるような、猫の恋になるのがある。しみったれてるじゃありませんか。度胸を据えて、首の座へお直んなさい。私なんざ疾《と》くに――先生……には面《おもて》は合わされない、お蔦……の顔も見ないものと思っている。この上は、どんなことだって恐れはしません。
 それに貴女は、島山さんに不快を感じさせながら、まだやっぱり、夫には貞女で、子には慈悲ある母親で、親には孝女で、社会の淑女で、世の亀鑑《きかん》ともなるべき徳を備えた貴婦人顔をしようとするから、痩せもし、苦労もするんです。
 浮気をする、貞女、孝女、慈母、淑女、そんな者があるものか。」
「じゃ……私を、」
 と擦寄って、
「不埒と言わないばッかりね。」
 さすがに顔の色をかえて屹《きっ》と睨《にら》むと、頷《うなず》いて、
「同時に私だって、」
 と笑って言う。
 その肩を突いて、
「まあ、仕ようの無い我儘《わがまま》だよ。」

       三十九

「貴下は始めからそうなんだわ。……
 道学者の坂田(アバ大人)さんが、兄さんの媒口《なこうどぐち》を利くのが癪《しゃく》に障るからって、(攫徒《すり》の手つだいをして、参謀本部も諭旨免官になりました。攫徒は、その時の事を恩にして、警察では、知らない間に袂《たもと》へ入れて置いて逆捩《さかねじ》を食わしたように云ってくれたけれど、その実は、知っていて攫徒の手から紙入を受取ってやったんだ。それで宜《よろ》しくばお稽古にお出でなさい、早瀬主税は攫徒の補助をした東京の食詰者《くいつめもの》です。)とこの塾を開く時、千鳥座かどこかで公衆に演説をする、と云った人だもの――私が留めたから止したけれど……」
 早瀬の胸のあたりに、背向《うしろむ》きになって、投げ出した褄《つま》を、熟《じっ》と見
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