おつけ》を装《よそ》う白々《しろしろ》とした手を、感に堪えて見ていたが、
「玉手を労しますな、」
 と一代の世辞を云って、嬉しそうに笑って、
「御馳走(とチュウと吸って)これは旨《うま》い。」
「人様のもので義理をして。ほほほ、お土産も持って参りません。」
 その挨拶もせずに、理学士は箸《はし》もつけないで、ごッくごッく。
「非常においしいです。僕は味噌汁と云うものは、塩が辛くなきゃ湯を飲むような味の無いものだとばかり思うたです。今、貴女、干杓《ひしゃく》に二杯入れたですね。あれは汁を旨く喰わせる禁厭《まじない》ですかね。」
「はい、お禁厭でございます。」
 と云った目のふちに、蕾《つぼみ》のような微笑《ほほえみ》を含んでいたから。
「は、は、は、串戯《じょうだん》でしょう。」
「菅子さんに聞いて御覧なさいまし。」
「そう云えば貴女、もうお出掛けなさらなければなりますまいで。」
「は、私はちっとも急ぎませんけれど、今日は名代《みょうだい》も兼ねておりますから、疾《はや》く参ってお手伝いをいたしませんと、また菅子さんに叱言《こごと》を言われると不可《いけ》ません――もうそれでは、若竹座へ参っております時分でしょうね。」
「うんえ、」
 頬ばった飯に籠って、変な声。
「道寄をしたですよ。貴女これからおいでなさるなら、早瀬の許《とこ》へお出でなさい、あすこに居ましょうで。」
「しますと、あの方も御一所なんですか。」
「一所じゃないです。早瀬がああいう依怙地《いこじ》もんですで。半分馬鹿にしていて、孤児院の義捐《ぎえん》なんざ賛成せんです。今日は会へも出んと云うそうで。それを是非説破して引張出すんだと云いましたから、今頃は盛に長紅舌を弄《ろう》しておるでしょう、は、はは、」
 と調子高に笑って、厭《いや》な顔をして、
「行って見て下さらんか。貴女、」
「はい、」
 となぜか俯向《うつむ》いたが、姉夫人はそのまましとやかに別れの会釈。
「また逢違いになりませんように、それでは御飯を召食《めしあが》りかけた処を、失礼ですが、」
「いや、もう済んだです。」
 その日は珍らしく理学士が玄関まで送って出た。
 絹足袋の、静《しずか》な畳ざわりには、客の来たのを心着かなかった鞠子の婢《おさん》も、旦那様の踏みしだいて出る跫音《あしおと》に、ひょっこり台所《だいどこ》から顔を見せる。
「今日は、」
 と少し打傾いて、姉夫人が、物優しく声をかける。
「ひゃあ、」と打魂消《うったまげ》て棒立ちになったは、出入《ではい》りをする、貴婦人の、自分にこんな様子をしてくれるのは、ついぞ有った験《ためし》が無いので。
 車夫が門外から飛込んで来て駒下駄を直す。
「AB横町でしたかね。あすこへ廻りますから、」
「へい、へい、ペロペロの先生の。」と心得たるものである。

       三十一

 早瀬は、妹が連れて父の住居《すまい》へも来れば病院へも二三度来て知っているが、新聞にまで書いた、塾の(小使)と云う壮佼《わかいもの》はどんなであろう。男世帯だと云うし、他に人は居ないそうであるから、取次にはきっとその(小使)が出るに違いない、と籠勝《こもりがち》な道子は面白いものを見もし聞《きき》もしするような、物珍らしい、楽しみな、時めくような心持《ここち》もして、早や大巌山が幌《ほろ》に近い、西草深のはずれの町、前途《さき》は直ぐに阿部の安東村になる――近来《ちかごろ》評判のAB横町へ入ると、前庭に古びた黒塀を廻《めぐ》らした、平屋の行詰った、それでも一軒立ちの門構《もんがまえ》、低く傾いたのに、独語教授、と看板だけ新しい。
 車を待たせて、立附けの悪い門をあければ、女の足でも五歩《いつあし》は無い、直《じ》き正面の格子戸から物静かに音ずれたが、あの調子なれば、話声は早や聞えそうなもの、と思う妹の声も響かず、可訝《おかし》な顔をして出て来ようと思ったその(小使)でもなしに、車夫のいわゆるぺろぺろの先生、早瀬主税、左の袖口の綻《ほころ》びた広袖《どてら》のような絣《かすり》の単衣《ひとえ》でひょいと出て、顔を見ると、これは、とばかり笑み迎えて、さあ、こちらへ、と云うのが、座敷へ引返《ひっかえ》す途中になるまで、気疾《きばや》に引込んでしまったので、左右《とこう》の暇《いとま》も無く、姉夫人は鶴が山路に蹈迷《ふみまよ》ったような形で、机だの、卓子《テイブル》だの、算を乱した中を拾って通った。
 菅子さんは、と先ず問うと、まだ見えぬ。が、いずれお立寄りに相違ない。今にも威勢の可い駒下駄の音が聞えましょう。格子がからりと鳴ると、立処《たちどころ》にこの部屋へお姿が露《あらわ》れますからお休みなさりながらお待ちなさい、と机の傍《わき》に坐り込んで、煙草《たばこ》を喫《の》もうとし
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