張出しの天幕《テント》を臨時の運動場にしつらえて、慈善市《バザア》を開く。謂《い》うまでもなく草深の妹は先陣承りの飛将軍。そこでこの会のほとんど参謀長とも謂《いつ》つべき本宅の大切な母親が、あいにく病気で、さしたる事ではないが、推《お》してそういう場所へ出て、気配り心扱いをするのは、甚だ予後のために宜《よろ》しからず、と医家だけに深く注意した処から、自分で進んだ次第ではなく、道子が出席することになった。――六月下旬の事なりけり。
朝涼《あさすず》の内に支度が出来て、そよそよと風が渡る、袖がひたひたと腕《かいな》に靡《なび》いて、引緊《ひきしま》った白の衣紋着《えもんつき》。車を彩る青葉の緑、鼈甲《べっこう》の中指《なかざし》に影が透く艶やかな円髷《まるまげ》で、誰にも似ない瓜核顔《うりざねがお》、気高く颯《さっ》と乗出した処は、きりりとして、しかも優しく、媚《なまめ》かず温柔《おっとり》して、河野一族第一の品。
嗜《たしなみ》も気風もこれであるから、院長の夫人よりも、大店向《おおだなむき》の御新姐《ごしんぞ》らしい。はたそれ途中一土手|田畝道《たんぼみち》へかかって、青田|越《ごし》に富士の山に対した景色は、慈善市《バザア》へ出掛ける貴女《レディ》とよりは、浅間の社へ御代参の御守殿という風があった。
車は病院所在地の横田の方から、この田畝を越して、城の裏通りを走ったが、突《つっ》かけ若竹座へは行くのでなく、やがて西草深へ挽込《ひきこ》んで、楫棒《かじぼう》は島山の門の、例の石橋の際に着く。
姉夫人は、余り馴れない会場へ一人で行くのが頼りないので、菅子を誘いに来たのであったが、静かな内へ通って見ると、妹は影も見えず、小児《こども》達も、乳母《ばあや》も書生も居ないで、長火鉢の前に主人《あるじ》の理学士がただ一人、下宿屋に居て寝坊をした時のように詰らなそうな顔をして、膳に向って新聞を読んでいた。火鉢に味噌汁の鍋《なべ》が掛《かか》って、まだそれが煮立たぬから、こうして待っているのである。
気軽なら一番《ひとつ》威《おど》かしても見よう処、姉夫人は少し腰を屈《かが》めて、縁から差覗いた、眉の柔《やわらか》な笑顔を、綺麗に、小さく畳んだ手巾《ハンケチ》で半ば隠しながら、
「お一人。」
「やあ、誰かと思った。」
と髯《ひげ》のべったりした口許《くちもと》に笑《わらい》は見せたが、御承知の為人《ひととなり》で、どうとも謂《い》わぬ。
姉夫人は、やっぱり半分《なかば》隠れたまま、
「滝ちゃんや、透《とおる》さんは。」
「母様《かあさん》が出掛けるんで、跡を追うですから、乳母《ばあや》が連れて、日曜だから山田(玄関の書生の名)もついて遊びです。平時《いつも》だと御宅へ上るんだけれど、今日の慈善会には、御都合で貴女も出掛けると云うから、珍らしくはないが、また浅間へ行って、豆か麩《ふ》を食わしとるですかな。」
「ではもう菅子さんは参りましたね。」
「先刻《さっき》出たです。」
なぜ待っててくれないのだろう、と云う顔色《かおつき》もしないで、
「ああ、もっと早く来れば可《よ》うござんした。一所に行って欲しかったし、それに四五日お来《み》えなさらないから、滝ちゃんや透さんの顔も見たくって、」
と優しく云って本意《ほい》なそう。一門の中《うち》に、この人ばかり、一人《いちにん》も小児を持たぬ。
三十
姉夫人の、その本意無げな様子を見て、理学士は、ああ、気の毒だと思うと、この人物だけにいっそ口重になって、言訳もしなければ慰めもせずに、希代にニヤリとして黙ってしまう。
と直ぐ出掛けようか、どうしようと、気抜のした姿うら寂《さみ》しく、姉夫人も言《ことば》なく、手を掛けていた柱を背《せな》に向直って、黒塀越に、雲切れがしたように合歓《ねむ》の散った、日曜の朝の青田を見遣った時、ぶつぶつ騒しい鍋の音。
と見ると、むらむらと湯気が立って、理学士が蓋《ふた》を取った、がよっぽど腹《おなか》が空いたと見えて、
「失礼します。」と碗を手にする。
「お待ちなさいまし、煮詰りはしませんか。」
と肉色の絽《ろ》の長襦袢《ながじゅばん》で、絽|縮緬《ちりめん》の褄《つま》摺《す》る音ない、するすると長火鉢の前へ行って、科《しな》よく覗《のぞ》いて見て、
「まあ、辛うござんすよ、これじゃ、」
と銅壺《どうこ》の湯を注《さ》して、杓文字《しゃもじ》で一つ軽く圧《おさ》えて、
「お装《つ》け申しましょう、」と艶麗《あでやか》に云う。
「恐縮ですな。」
と碗を出して、理学士は、道子が、毛一筋も乱れない円髷の艶《つや》も溢《こぼ》さず、白粉の濃い襟を据えて、端然とした白襟、薄お納戸のその紗綾形《さやがた》小紋の紋着《もんつき》で、味噌汁《
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