と一所にしてあった、その新聞の切抜を出す、とお妙は早や隔心《へだてごころ》も無く、十年の馴染のように、横ざまに蓐《とこ》に凭《もた》れながら、頸《うなじ》を伸《のば》して、待構えて、
「ちょいと、どんなことが書いてあって。また掏賊《すり》を助けたりなんか、不可《いけ》ないことをしたのじゃないの。急いで聞かして頂戴な。」
「いいえ、まあ、貴女がお読みなさいまし。」
「拝見な。」
 と寝転ぶようにして、頬杖《ほおづえ》ついて、畳の上で読むのを見ながら、抜きかけた、仏壇の抽斗《ひきだし》を覗くと、そこに仰向けにしてある主税の写真を密《そっ》と見て、ほろりとしながら、カタリと閉めた。懐中《ふところ》へ、その酒井先生恩賜の紙幣《さつ》の紙包を取って、仏壇の中に落ちた線香立ての灰を、フッフッと吹いて、手で撫でる。
 戸外《おもて》を金魚売が通った。
「何でしょう。この小使は、また可訝《おかし》なものじゃないの、」
 とお妙が顔を赤うして云う。新聞に書いたのは(AB《アアベエ》横町。)と云う標題《みだし》で、西の草深のはずれ、浅間に寄った、もう郡部になろうとするとある小路を、近頃|渾名《あだな》してAB横町と称《とな》える。すでに阿部|郡《ごおり》であるのだから語呂が合い過ぎるけれども、これは独語学者早瀬主税氏が、ここに私塾を開いて、朝からその声の絶間のない処から、学生が戯《たわむれ》にしか名づけたのが、一般に拡まって、豆腐屋までがAB横町と呼んで、土地の名物である。名物と云えば、も一ツその早瀬塾の若いもので、これが煮焼《にたき》、拭掃除、万端世話をするのであるが、通例なら学僕と云う処、粋《いなせ》な兄哥《あにい》で、鼻唄を唱《うた》えばと云っても学問をするのでない。以前早瀬氏が東京で或《ある》学校に講師だった、そこで知己《ちかづき》の小使が、便って来たものだそうだが、俳優《やくしゃ》の声色が上手で落語も行《や》る。時々(いらっしゃい、)と怒鳴って、下足に札を通して通学生を驚かす、とんだ愛敬もので、小使さん、小使さんと、有名な島山夫人をはじめ、近頃流行のようになって、独逸語をその横町に学ぶ貴婦人連が、大分|御贔屓《ごひいき》である、と云う雑報の意味であった。
 小芳が、おお暑い、と云いつつ、いそいそと帰って来た。
 話にその小使の事も交って、何であろうと三人が風説《うわさ》とりどりの中へ、へい、お待遠様、と来たのが竹葉。
 小芳が火を起すと、気取気の無いお嬢さん、台所へ土瓶を提げて出る。お蔦も勢《いきおい》に連れて蹌踉《よろよろ》起きて出て、自慢の番茶の焙《ほう》じ加減で、三人睦くお取膳。
 お妙が奈良漬にほうとなった、顔がほてると洗ったので、小芳が刷毛《はけ》を持って、颯《さっ》とお化粧《つくり》を直すと、お蔦がぐい、と櫛を拭《ふ》いて一歯入れる。
 苦労人《くろうと》が二人がかりで、妙子は品のいい処へ粋になって、またあるまじき美麗《あでやか》さを、飽かず視《なが》めて、小芳が幾度《いくたび》も恍惚《うっとり》気抜けのするようなのを、ああ、先生に瓜二つ、御尤《ごもっと》もな次第だけれども、余り手放しで口惜《くやし》いから、あとでいじめてやろう、とお蔦が思い設けたが、……ああ、さりとては……
 いずれ両親には内証《ないしょ》なんだから、と(おいしかってよ。)を見得もなく門口でまで云って、遅くならない内、お妙は八ツ下りに帰った。路地の角まで見送って、ややあって引返《ひっかえ》した小芳が、ばたばたと駈込んで、半狂乱に、ひしと、お蔦に縋《すが》りついて、
「我慢が出来ない。我慢が出来ない。我慢が出来ない。あんな可愛いお嬢さんにお育てなすったお手柄は、真砂町の夫人《おくさん》だけれど、産《う》……産んだのは私だよ。私の子だよ、お蔦さん、身体《からだ》へ袖が触る度《たんび》に、胸がうずいてならなんだ、御覧よ、乳のはったこと。」
 と、手を引入れて引緊《ひきし》めて、わっとばかりに声を立てると、思わず熟《じっ》と抱き合って、
「あれ、しっかりおし、小芳さん、癪《しゃく》が起ると不可《いけな》いよ。私たちは何の因果で、」
 芸者なんぞになったとて、色も諸分《しょわけ》も知抜いた、いずれ名取の婦《おんな》ども、処女《むすめ》のように泣いたのである。


     小待合

       二十七

「こうこう、姉《あね》え、姉え、目を開《あ》いて口を利きねえ。もっとも、かっと開いたところで、富士も筑波も見えるかどうだか、覚束ねえ目だけれどよ。はははは、いくら江戸|前《めえ》の肴屋《さかなや》だって、玄関から怒鳴り込む奴があるかい。お客だぜ。お客様だぜ。おい、お前《めえ》の方で惣菜は要らなくっても、己《おら》が方で座敷が要るんだ。何を! 座敷が無え、古風な事を
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