言うな、芸者の霜枯じゃあるめえし。」
 と盤台《はんだい》をどさりと横づけに、澄まして天秤《てんびん》を立てかける。微酔《ほろえい》のめ[#「め」に傍点]組の惣助。商売《あきない》の帰途《かえり》にまたぐれた――これだから女房が、内には鉄瓶さえ置かないのである。
 立迎えた小待合の女中は、坐りもやらず中腰でうろうろして、
「全くおあいにくなんですよ。」
 と入口を塞いだ前へ、平気で、ずんと腰を下ろして、
「見ねえ、身もんでえをする度《たんび》に、どんぶりが鳴らあ。腹の虫が泣くんじゃねえ、金子《かね》の音だ。びくびくするねえ。お望みとありゃ、千両束で足の埃《ほこり》を払《はた》いて通るぜ。」
 とあげ膝で、ボコポン靴をずぶりと脱いで、装塩《もりじお》のこなたへボカン。
 声が高いのでもう一人、奥からばたばたと女中が出て来て、推重《おっかさ》なると、力を得たらしく以前の女中が、
「ほんとうにお前さん、お座敷が無いのですよ。」
「看板を下ろせ、」
 と喚《わめ》いて、
「座敷がなくば押入へ案内しねえ、天井だって用は足りらい。やあ、御新規お一人様あ、」
 と尻上りに云って、外道面《げどうづら》の口を尖らす、相好塩吹の面のごとし。
「そっちの姉《あねえ》は話せそうだな。うんや、やっぱりお座敷ござなく面《づら》だ。変な面だな。はははは、トおっしゃる方が、あんまり変でもねえ面でもねえ。」
 行詰った鼻の下へ、握拳《にぎりこぶし》を捻込《ねじこ》むように引擦《ひっこす》って、
「憚《はばか》んながらこう見えても、余所行《よそゆ》きの情婦《いろ》があるぜ。待合《まちええ》へ来て見繕いで拵《こしれ》えるような、べらぼうな長生《ながいき》をするもんかい。
 おう、八丁堀のめ[#「め」に傍点]の字が来たが、の、の、承知か、承知か、と電話を掛けねえ。柳橋の小芳さん許《とこ》だ。柏屋《かしわや》の綱次《つなじ》と云う美しいのが、忽然《こつぜん》として顕《あらわ》れらあ。
 どうだ、驚いたか。銀行の頭取が肴屋に化けて来たのよ。いよ、御趣向!」
 と変な手つき、にゅうと女中の鼻頭《はなさき》へ突出して、
「それとも半纏着《はんてんぎ》は看板に障るから上げねえ、とでも吐《ぬ》かして見ろ。河岸から鯨を背負《しょ》って来て、汝《てめえ》ン許《とこ》で泳がせるぞ、浜町|界隈《かいわい》洪水だ。地震より恐怖《おっかね》え、屋体骨《やていぼね》は浮上るぜ。」
 女中二人が目配せして、
「ともかくお上んなさいまし、」
「どうにか致しますから。」
「何だ、どうにかする。格子で馴染を引くような、気障《きざ》な事を言やあがる。だが心底は見届けたよ。いや、御案内引[#「引」は小書き]。」
 と黄声《きなこえ》を発して、どさり、と廊下の壁に打附《ぶつか》りながら、
「どこだ、どこだ、さあ、持って来い、座敷を。」
 で、突立って大手を拡げる。
「どうぞこちらへ、」
 と廊下で別れて、一人が折曲《おりまが》って二階へ上る後から、どしどし乱入。とある六畳へのめずり込むと、蒲団も待たず、半股引《はんももひき》の薄汚れたので大胡坐《おおあぐら》。
「御酒《ごしゅ》をあがりますか。」
「何升お燗《かん》をしますか、と聞きねえ。仕入れてあるんじゃ追《おッ》つく[#「追つく」は底本では「追っく」]めえ。」
 女中が苦笑いして立とうとすると、長々と手を伸ばして、据眼《すえまなこ》で首を振って、チョ、舌鼓を打って、
「待ちな待ちな。大夫《たゆう》前芸と仕《つかまつ》って、一ツ滝の水を走らせる、」
 とふいと立って、
「鷲尾の三郎案内致せ。鵯越《ひよどりごえ》の逆落しと遣れ。裏階子《うらばしご》から便所だ、便所だ。」
 どっかの夜講で聞いたそうな。

       二十八

 手水《ちょうず》鉢の処へめ[#「め」に傍点]組はのっそり。里心のついた振られ客のような腰附で、中庭越に下座敷をきょろきょろと[#「きょろきょろと」は底本では「きよろきょろと」]※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したが、どこへ何んと見当附けたか、案内も待たず、元の二階へも戻らないで、とある一室《ひとま》へのっそりと入って、襖際《ふすまぎわ》へ、どさりとまた胡坐《あぐら》になる。
 女中が慌《あわただ》しく駈込んで、
「まあ、どこへいらっしゃるんですか。」
 と、たしなめるように云うと、
「ここにいらっしゃら。ははは、心配するな。」
「困りますよ。隣のお座敷には、お客様が有るじゃありませんか。」
「構わねえ、一向構わねえ。」
「こちらがお構いなさいませんでも、あちら様で。」
「可《い》いじゃねえか、お互《たげえ》だ。こんな処へ来て何も、向う様だって遠慮はねえ。大家様の隠居殿の葬礼《ともれい》に立つとってよ、町内が質屋
前へ 次へ
全107ページ中80ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング