から、そうしたらば、あの……」
と蓐《とこ》の端につかまって、お蔦の顔を覗くようにして、
「貴女も、私を可厭《いや》がらないで、一所に遊んで頂戴よ。前《ぜん》に飯田町に行きたくっても、貴女が隠れるから、どんなに遠慮だったか知れないわ。」
もう二人とも泣いていたが、お蔦は、はッと面《おもて》を伏せた。
二十五
涙を払って、お蔦が、
「姉さん、私は浮世に未練が出た。また生命《いのち》が惜《おし》くなったよ。皆さんに心配を懸けないで、今日からお医師《いしゃ》にも懸りましょう、薬も服《の》むよ。
お嬢さん、もう早瀬さんには逢えなくっても、貴女がお達者でいらっしゃいます内は、死にたくはなくなりました。」
と身をせめて、わなわな震える。
「寒気がするのねえ、さあ、お寝なさいよ、私が掛けて上げましょう。」
掻巻《かいまき》の襟へ惜気もなく、お妙が袖も手も入れて引くのを見て、
「ああ、勿体ない。そんなになすっては不可《いけ》ません。皆《みんな》がそうじゃないって言いますけれど、私は色のついた痰《たん》を吐きますから、大切なお身体《からだ》に、もしか、感染《うつり》でもするとなりません。」
覚悟した顔の色の、颯《さっ》と桃色なが心細い。
「可《い》いわ!」
「可いわではござんせん。あれ、そして寒気なんぞしませんよ。もう私は熱くって汗が出るようなんです、それから、姉さん、」
と小芳を見て、
「何ぞ……」
と云うと、黙って頷《うなず》く。
「来たらね、こんな処でなく、あっちへ行って、お前さん、お嬢さんと。」
「今日は私に任かせておくれ。」
「いいえ、」
「不可《いけ》ないよ、私がするんだよ。」
「お嬢さん、ああですもの。見舞に来て、ちょっと、病人を苛《いじ》めるものがあって、」
「無理ばっかり云う人だよ、私に理由《わけ》があるんだから。」
「理由は私にだって有りますよ。あの、過般《いつか》もお前さんに話したろう。早瀬さんと分れて、こうなる時、煙草を買え、とおっしゃって、先生の下すった、それはね、折目のつかない十円|紙幣《さつ》が三枚。勿体ないから、死んだらお葬式《とむらい》に使って欲しくって、お仏壇の抽斗《ひきだし》へ紙に包んでしまってある、それを今日使いたいのよ。お嬢さんに差上げて、そして私も食べたいから、」
とただ言うのさえ病人だけ、遺言のように果敢《はか》なく聞えた。
「ああ、そんならそうおしな。どれ、大急ぎで、いいつけよう。」
「戸外《おもて》は暑かろうねえ。」
「何の、お蔦さん。お嬢さんに上げるんだもの、無理にも洋傘《こうもり》をさすものか。」
「角の小間物屋で電話をお借りよ。」
「ああ、知ってるよ。あんまりあらくない中くらいな処が好《よ》かろうねえ。」
「私はヤケに大串が可いけれど、お嬢さんは、」
「ここで皆《みんな》一所に食べるんでなくっちゃ、厭。」
「お相伴しますとも、お取膳とやらで、」
と小芳が嬉しそうに云う。
「じゃ、私も大きいの。」
「感心、」
とお蔦が莞爾《にっこり》。
「驚きましたねえ。」
と立つ。
「御飯も一所よ。」
「あいよ、」
と框《かまち》を下りる時、褄《つま》を取りそうにして、振向いた目のふちが腫《はれ》ぼったく、小芳は胸を抱いて、格子をがらがら。
「お嬢さん、」
とお蔦が懐しそうに、
「もともと、そういう約束で別れたんですけれど、私の方へも丸一年……ちっとも便《たより》がないんですよ。
人が教えてくれましてね、新聞を見ると、すっかり土地の様子が知れるッて言いますから、去年の七月から静岡の民友新聞と云うのを取りましてね、朝起きると直ぐ覗《のぞ》いて、もう見落しはしなかろうか、と隙《ひま》さえあれば、広告まで読みますんですが、ちっとも早瀬さんの事を書いてあったことはありませんから、どうしておいでだか分りません。
この頃じゃ落胆《がっかり》して、勢《せい》も張合も無いんですけれども、もしやにひかされては見ています。
たった一度、早瀬さんのことを書いてあったのがござんしてね、切抜いて紙入の中へ入れてありますから、今、お目に掛けますよ。」
二十六
お蔦は蓐《しとね》に居直って、押入の戸を右に開ける、と上も下も仏壇で、一ツは当家の。自分でお蔦が守をするのは同居だけに下に在る。それも何となくものあわれだけれども、後姿が褄《つま》の萎《な》えた、かよわい状《さま》は、物語にでもあるような。直ぐにその裳《もすそ》から、仏壇の中へ消えそうに腰が細く、撫肩がしおれて、影が薄い。
紙入の中は、しばらく指の尖《さき》で掻探さねばならなかったほど、可哀相に大切《だいじ》に蔵《しま》って、小さく、整然《きちん》と畳んで、浜町の清正公《せいしょうこう》の出世開運のお札
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