も無かった。
小芳の心中、ともかくも、お蔦の頼み少ない風情は、お妙にも見て取られて、睫毛《まつげ》を幽《かすか》に振わしつつ、
「お医者には懸っているの。」
「いいえ、私もその意見をしていた処でござんすよ。お医者様にもろくに診《み》て貰わないで、薬も嫌いで飲まないんですもの、貴女からもそう云ってやって下さいましな。」
と、はじめて煙草盆から一服吸って、小芳はお妙の声を聞くのを、楽しそうに待つ顔色《かおつき》。
お取膳
二十四
その時お妙の言《ことば》というのが、余り案外であったのから、小芳は慌《あわただ》しく銀の小さな吸口を払《はた》いて煙管《きせる》を棄てたのである。
「お医者もお薬も、私だって大嫌いだわ。」
と至って真面目《まじめ》で、
「まずいものを内服《のま》せて、そしてお菓子を食べては悪いの、林檎を食べては不可《いけな》いの、と種々《いろん》なことを云うんですもの。
そんな事よりねえ、面白いことをしてお遊びなさいよ。」
小芳が(まあ。)と云う体で呆れると、お蔦は寂しそうな笑《えみ》を見せて、
「お嬢さん、その貴嬢《あなた》、面白いことが無いんですもの、」と勢《せい》のない呼吸《いき》をする。
「主税さんに逢えば可いでしょう。」
「え、」
「貴女、逢いたいでしょう。」
二人が黙って瞻《みまも》っても、お妙は目まじろぎもしないで、
「私だって逢いたくってよ。静岡へ行ってから、全く一年になるんですもの、随分だと思うわ、手紙も寄越さないんですもの。私は、あんまりだと思ってよ。
絵のお清書をする時、硯《すずり》を洗ってくれて、そしてその晩別れたのは、ちょうど今月じゃありませんか。その時の杜若《かきつばた》なんざ、もう私、嬰児《あかんぼ》が描いたように思うんですよ。随分しばらくなんですもの、私だって逢いたいわ。」
と見る見る瞳にうるみを持ったが、活々した顔は撓《たわ》まず、声も凜々《りんりん》と冴えた。
「それですから、貴女も逢いたかろうと思ってねえ。実は私相談に来たの。もっと早くから、来よう、来ようと思ったんだけれど、極《きまり》が悪いしねえ、それに私見たようなものには逢って下さらないでしょうと思って、学校の帰りに幾度《いくたび》も九段まで来て止したの。
それでも、あの、築地から来るお友達に、この辺の事を聞いて置いて、九段から、電車に乗るのは分ったの。だけどもねえ、一度|万世橋《めがね》で降りてしまって、来られなくなった事があるのよ。
そのお友達と一所に来ると、新富座の処まで教えて上げましょうッて云うんだけれど、学校でまた何か言われると悪いから、今日も同一《おなじ》電車に乗らないように、招魂社の中にしばらく居たら、男の書生さんが傍《そば》へ来て附着《くッつ》いて歩行《ある》くんですもの。私、斬られるかと思って可恐《こわ》かったわ、ねえ、お臀《しり》の肉《み》が薬になると云うんでしょう、ですもの、危いわ。
もう一生懸命にここへ来て、まあ、可《よ》かった、と思ってよ。
あのね、あの、」
と蓐《とこ》の綴糸《とじいと》を引張って、
「貴女も主税さんも、父さんに叱られてそれでこうしているんだって、可哀相だわ。私なら黙っちゃいないわ、我儘《わがまま》を云ってやるわ。だって、自分だって、母様《かあさん》が不可《いけ》ないと云うお酒を飲んで仕様が無いんですもの。自分も悪いのよ。
貴女叱られたら、おあやまんなさいよ。そしてね、父さんはね、私や母様の云う事は、それは、憎らしくってよ、ちっとも肯《き》かないけれど、人が来て頼むとねえ、何でも(厭だ。)とは言わないで、一々引受けるの。私ちゃんと伝授を知っているから、それを知らせて上げたいの、貴女が御病気で来られないんなら、小母さん、」
と隔てなく、小芳の膝に手を置いて、
「小母さんでも可《よ》うござんす。構わないで家《うち》へいらっしゃいよ。玄関の書生さんは婦《おんな》のお客様をじろじろ見るから極《きまり》が悪かったら遠慮は無いわ、ずんずん庭の方からいらっしゃい。
私がね、直ぐに二階へ連れてって、上げるわ。そうするとねえ、母様がお酒を出すでしょう。私がお酌をして酔わせてよ。アハアハ笑って、ブンと響くような大《おおき》な声を出したら、そしたらもう可いわ。
是非、主税さんを呼んで下さい。電報で――電報と云って頂戴、可くって。不可《いけな》いとか何とか、父さんがそう云ったら、膝をつかまえて離さないの。そして、お蔦さんが寂《さみ》しがって、こんなに煩らっていらっしゃると云って御覧なさい。あんなに可恐《こわ》らしくっても、あわれな話だと直《じ》きに泣くんですもの、きっと承知するわ。
そのかわり、主税さんが帰って来たら、日曜に遊びに行《ゆ》く
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