ずッと透《とお》る。
 中からよく似た、やや落着いた静《しずか》な声で、
「はあ、誰方《どなた》?」
 お妙は自分から調子が低く、今のは聞えない分に極《き》めていたのを、すぐの返事は、ちと不意討という風で、吃驚《びっくり》して顔を上げる。
「誰方、」
「あの……髪結さんの内はこっちでしょうか。」
「はい、こちらでございますが。」と座を立った気勢《けはい》に連れて、もの云う調子が婀娜《あだ》になる。
 と真正面《まっしょうめん》に内を透かして、格子戸に目を押附《おッつ》ける。
「何ぞ御用。」
 といくらか透いていた障子をすらりと開ける。粋で、品の佳《い》い、しっとりした縞《しま》お召に、黒繻子《くろじゅす》の丸帯した御新造《ごしんぞ》風の円髷《まるまげ》は、見違えるように質素《じみ》だけれども、みどりの黒髪たぐいなき、柳橋の小芳《こよし》であった。
 立身《たちみ》で、框から外を見たが、こんな門《かど》には最明寺、思いも寄らぬ令嬢風に、急いで支膝《つきひざ》になって、
「あいにく出掛けて居《お》りませんが、貴嬢《あなた》、どちら様でいらっしゃいますか。帰りましたら、直ぐ上りますように申しましょう。」
 瞳も離さないで視めたお妙が、後馳《おくれば》せに会釈して、
「そう、でも、あの、誰方かおいででしょう。内へ来て貰うんじゃないの。私が結って欲しいのよ。どうせ、こんなのですから、」
 と指でも圧《おさ》えず、惜気《おしげ》なく束髪の鬢《びん》を掉《ふ》って、
「お師匠さんでなくっても可《い》いんです。お弟子さんがお在《いで》なら、ちょいと結んで下さいな。」
 縋《すが》って頼むように仇《あど》なく云って、しっかり格子に掴《つか》まって、差覗きながら、
「小母さんでも可いわ。」
 我を(小母さん)にして髪を結って、と云われたので、我ながら忘れたように、心から美しい笑顔になって、
「貴嬢、まあ、どちらから。あの、御近所でいらっしゃいますか。」
「いいえ、遠いのよ。」
「お遠うございますか。」
「本郷だわ。」
「ええ、」
「私ねえ、本郷のねえ、酒井と云うの。」
「お嬢様、まあ、」
 と土間に一足おろしさまに、小芳は、急いで框から開ける手が、戸に掴まったお妙の指を、中から圧《おさ》えたのも気が附かぬか、駒下駄《こまげた》の先を、逆《さかさ》に半分踏まえて、片褄蹴出《かたづまけだ》しのみだれさえ、忘れたように瞻《みまも》って、
「お妙様。」
「小母さんは、早瀬さんの……あの……お蔦さん?」

       二十一

「いらっしゃいまし、」
 と小芳が太《いた》く更《あらた》まって、三指を突いた時、お妙は窮屈そうに六畳の上座《じょうざ》へ直されていたのである。
「貴嬢《あなた》、まあ、どうしてこんな処へ、たった御一人なんですか。途中で何かございませんでしたか、お暑かったでしょうのに。唯今《ただいま》手拭を絞って差上げます。」
 と一斉《いっとき》に云いかけられて、袖で胸を煽《あお》いでいた手を留めて、
「暑いんじゃないの、私|極《きまり》が悪いから、それでもって、あの、」
 と袂《たもと》を顔に当てて、鈴のような目ばかり出して、
「小母さんが、お蔦さん?」と低声《こごえ》でまた聞いた。
「あれ、どうしましょう。あんまり思懸けない方がお見えなさいましたもんですから、私は狼狽《とっち》てしまってさ。ほほほ、いうことも前後《あとさき》になるんですもの、まあ、御免なさいまし。
 私は……じゃありません。その……何でございますよ、お蔦さんが煩らって寝ておりますので、見舞に来たんでございます。」
「ええ、御病気。」と憂慮《きづかわ》しげに打傾く。
「はあ、久しい間、」
「沢山《たんと》、悪くって?」
「いいえ、そんなでもないようですけれど、臥《ふせ》っておりますから、お髪《ぐし》はあげられませんでしょう。ですが、御緩《ごゆっ》くり、まあ、なさいまし。この頃では、お増さんも気に掛けて、早く帰って参りますから、ほんとうに……お嬢さん、」
 と擦寄って、うっかりと見惚《みと》れている。
 上框《あがりぐち》が三畳で、直ぐ次がこの六畳。前の縁が折曲《おりまが》った処に、もう一室《ひとま》、障子は真中《まんなか》で開いていたが、閉った蔭に、床があれば有るらしい。
 向うは余所《よそ》の蔵で行詰ったが、いわゆる猫の額ほどは庭も在って、青いものも少しは見える。小綺麗さは、酔《のん》だくれには過ぎたりといえども、お増と云う女房の腕で、畳も蒼《あお》い。上原とあった門札こそ、世を忍ぶ仮の名でも何でもない、すなわちこれめ[#「め」に傍点]組の住居《すまい》、実は女髪結お増の家と云ってしかるべきであろう。
 惣助の得意先は、皆、渠《かれ》を称して恩田百姓と呼ぶ。註に不及《およば
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