。
枕に手を支《つ》き、むっくり起きると、あたかもその花環の下、襖の合せ目の処に、残燈《ありあけ》の隈《くま》かと見えて、薄紫に畳を染めて、例の菫《すみれ》色の手巾《ハンケチ》が、寂然《せきぜん》として落ちたのに心着いた。
薫はさてはそれからと、見る見る、心ゆくばかりに思うと、萌黄《もえぎ》に敷いた畳の上に、一簇《ひとむれ》の菫が咲き競ったようになって、朦朧《もうろう》とした花環の中に、就中《なかんずく》輪《りん》の大きい、目に立つ花の花片が、ひらひらと動くや否や、立処《たちどころ》に羽にかわって、蝶々に化けて、瞳の黒い女の顔が、その同一《おなじ》処にちらちらする。
早瀬は、甘い、香《かんば》しい、暖かな、とろりとした、春の野に横《よこた》わる心地で、枕を逆に、掻巻の上へ寝巻の腹ん這《ばい》になって、蒲団の裙に乗出しながら、頬杖《ほおづえ》を支いて、恍惚《うっとり》した状《さま》にその菫を見ている内、上にたたずむ蝶々と斉《ひと》しく、花の匂が懐しくなったと見える。
やおら、手を伸して紫の影を引くと、手巾はそのまま手に取れた。……が菫には根が有って、襖の合せ目を離れない。
不思議に思って、蝶々がする風情に、手で羽のごとく手巾を揺動かすと、一|寸《すん》ばかり襖が……開《あ》……い……た。
と見ると、手巾の片端に、紅《くれない》の幻影《まぼろし》が一条《ひとすじ》、柔かに結ばれて、夫人の閨《ねや》に、するすると繋《つなが》っていたのであった。
菫が咲いて蝶の舞う、人の世の春のかかる折から、こんな処には、いつでもこの一条が落ちている、名づけて縁《えにし》の糸と云う。禁断の智慧《ちえ》の果実《このみ》と斉《ひと》しく、今も神の試みで、棄てて手に取らぬ者は神の児《こ》となるし、取って繋ぐものは悪魔の眷属《けんぞく》となり、畜生の浅猿《あさま》しさとなる。これを夢みれば蝶となり、慕えば花となり、解けば美しき霞となり、結べば恐しき蛇となる。
いかに、この時。
隔ての襖が、より多く開いた。見る見る朱《あか》き蛇《くちなわ》は、その燃ゆる色に黄金の鱗《うろこ》の絞を立てて、菫の花を掻潜《かいくぐ》った尾に、主税の手首を巻きながら、頭《かしら》に婦人の乳《ち》の下を紅《くれない》見せて噛《か》んでいた。
颯《さっ》と花環が消えると、横に枕した夫人の黒髪、後向きに、掻巻の襟を出た肩の辺《あたり》が露《あらわ》に見えた。残燈《ありあけ》はその枕許にも差置いてあったが、どちらの明《あかり》でも、繋いだものの中は断たれず。……
ぶるぶる震うと、夫人はふいと衾《ふすま》を出て、胸を圧《おさ》えて、熟《じっ》と見据えた目に、閨の内を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]《ぼう》としたようで、まだ覚めやらぬ夢に、菫咲く春の野を※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》うごとく、裳《もすそ》も畳に漾《ただよ》ったが、ややあって、はじめてその怪い扱帯《しごき》の我を纏《まと》えるに心着いたか、あ、と忍び音に、魘《うな》された、目の美しい蝶の顔は、俯向けに菫の中へ落ちた。
思いやり
二十
妙子は同伴《つれ》も無しにただ一人、学校がえりの態《なり》で、八丁堀のとある路地へ入って来た。
通うその学校は、麹町《こうじまち》辺であるが、どこをどう廻ったのか、真砂町《まさごちょう》の嬢さんがこの辺へ来るのは、旅行をするようなもので、野山を越えてはるばると……近所で温習《なら》っている三味線《さみせん》も、旅の衣はすずかけの、旅の衣はすずかけの。
目で聞くごとくぱっちりと、その黒目勝なのを※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったお妙は、鶯の声を見る時と同一《おんなじ》な可愛い顔で、路地に立って※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みま》わしながら、橘《たちばな》に井げたの紋、堀の内|講中《こうじゅう》のお札を並べた、上原《かんばら》と姓だけの門札《かどふだ》を視《なが》めて、単衣《ひとえ》の襟をちょいと合わせて、すっとその格子戸へ寄って、横に立って、洋傘《ひがさ》を支《つ》いたが、声を懸けようとしたらしく、斜めに覗《のぞ》き込んだ顔を赤らめて、黙って俯向《うつむ》いて俯目《ふしめ》になった。口許《くちもと》より睫毛《まつげ》が長く、日にさした影は小さく軒下に隠れた。
コトコトとその洋傘《ひがさ》で、爪先《つまさき》の土を叩いていたが、
「御免なさい。」
とようよう云う、控え目だったけれども、朗《ほがらか》に清《すず》しい、框《かまち》の障子越に
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