《す》万の蛙《かわず》の声。蛙、蛙、蛙、蛙、蛙と書いた文字に、一ツ一ツ音があって、天地《あめつち》に響くがごとく、はた古戦場を記した文に、尽《ことごと》く調《しらべ》があって、章と句と斉《ひと》しく声を放って鳴くがごとく、何となく雲が出て、白く移り行くに従うて、動揺《どよみ》を造って、国が暗くなる気勢《けはい》がする。
 時に湯気の蒸した風呂と、庇合《ひあわい》の月を思うと、一生の道中記に、荒れた駅路《うまやじ》の夜の孤旅《ひとりたび》が思出される。
 渠《かれ》は愁然として額を圧《おさ》えた。
「どうぞお休み下さりまし。」
 と例の俯向《うつむ》いた陰気な風で、敷居越に乳母が手を支《つ》いた。
「いろいろお使い立てます。」
 と直ぐにずッと立って、
「どちらですか。」
「そこから、お座敷へどうぞ……あの、先刻はまた、」と頭《つむり》を下げた。
 寝床はその、十畳の真中《まんなか》に敷いてあった。
 枕許《まくらもと》に水指《みずさし》と、硝子杯《コップ》を伏せて盆がある。煙草盆を並べて、もう一つ、黒塗|金蒔絵《きんまきえ》の小さな棚を飾って、毛糸で編んだ紫陽花《あじさい》の青い花に、玉《ぎょく》の丸火屋《まるぼや》の残燈《ありあけ》を包んで載せて、中の棚に、香包を斜めに、古銅の香合が置いてあって、下の台へ鼻紙を。重しの代りに、女持の金時計が、底澄んで、キラキラ星のように輝いていた。
 じろりと視《なが》めて、莞爾《にっこり》して、蒲団に乗ると、腰が沈む。天鵝絨《びろうど》の括枕《くくりまくら》を横へ取って、足を伸《のば》して裙《すそ》にかさねた、黄縞《きじま》の郡内に、桃色の絹の肩当てした掻巻《かいまき》を引き寄せる、手が辷《すべ》って、ひやりと軽《かろ》くかかった裏の羽二重が燃ゆるよう。
 トタンに次の書斎で、するすると帯を解く音がしたので、まだ横にならなかった主税は、掻巻の襟に両肱を支いた。
 乳母が何か云ったようだったが、それは聞えないで、派手な夫人の声して、
「ああ、このまま寝ようよ。どうせ台なしなんだから。」
 と云ったと思うと、隔ての襖《ふすま》の左右より、中ほどがスーと開《あ》いたが、こなたの十畳の京間は広し、向うの灯《あかり》も暗いから、裳《もすそ》はかくれて、乳《ち》の下の扱帯《しごき》が見えた。
「お休みなさい。」
「失礼。」
 と云う。襖を閉めて肩を引いた。が、幻の花環一つ、黒髪のありし辺《あたり》、宙に残って、消えずに俤《おもかげ》に立つ。
 主税は仰向けに倒れたが、枕はしないで、両手を廻して、しっかと後脳を抱いた。目はハッキリと※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、失せやらぬその幻を視めていた。時過ぎる、時過ぎる、その時の過ぎる間に、乳母が長火鉢の処の、洋燈《ランプ》を消したのが知れて、しっこは、しっこは、と小児《こども》に云うのが聞えたが、やがて静まって、時過ぎた。
 早瀬は起上って、棚の残燈《ありあけ》を取って、縁へ出た。次の書斎を抜けるとまた北向きの縁で、その突当りに、便所《かわや》があるのだが、夫人が寝たから、大廻りに玄関へ出て、鞠子の婢《おさん》の寝た裙《すそ》を通って、板戸を開けて、台所《だいどこ》の片隅の扉《ひらき》から出て、小用を達《た》して、手を洗って、手拭《てぬぐい》を持つと、夫人が湯で使ったのを掛けたらしい、冷く手に触って、ほんのり白粉《おしろい》の香《におい》がする。

       十九

 寝室《ねま》へ戻って、何か思切ったような意気込で、早瀬は勢《いきおい》よく枕して目を閉じたが、枕許の香《こう》は、包を開けても見ず、手拭の移香でもない。活々した、何の花か、その薫の影はないが、透通って、きらきら、露を揺《ゆす》って、幽《かすか》な波を描いて恋を囁《ささや》くかと思われる一種微妙な匂が有って、掻巻の袖を辿《たど》って来て、和《やわら》かに面《おもて》を撫でる。
 それを掻払《かいはら》うごとく、目の上を両手で無慚《むざん》に引擦《ひっこす》ると、ものの香はぱっと枕に遁《に》げて、縁側の障子の隅へ、音も無く潜んだらしかったが、また……有りもしない風を伝って、引返《ひっかえ》して、今度は軽《かろ》く胸に乗る。
 寝返りを打てば、袖の煽《あおり》にふっと払われて、やがて次の間と隔ての、襖の際に籠った気勢《けはい》、原《もと》の花片《はなびら》に香が戻って、匂は一処に集ったか、薫が一汐《ひとしお》高くなった。
 快い、さりながら、強い刺戟を感じて、早瀬が寝られぬ目を開けると、先刻《さっき》(お休みなさい。)を云った時、菅子がそこへ長襦袢の模様を残した、襖の中途の、人の丈の肩あたりに、幻の花環は、色が薄らいで、花も白澄んだけれども、まだ歴々《ありあり》と瞳に映る
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