していた肩の、衣《きぬ》の裏がするりと辷《すべ》った時、薄寒そうに、がっくりと頷《うなず》くと見ると、早急《さっきゅう》にフイと立つ……。
 膝に搦《から》んだ裳《もすそ》が落ちて、蹌踉《よろ》めく袖が、はらりと、茶棚の傍《わき》の襖《ふすま》に当った。肩を引いて、胸を反《そ》らして、おっくらしく、身体《からだ》で開けるようにして、次室《つぎ》へ入る。
 板廊下を一つ隔てて、そこに四畳半があるのに、床が敷いてあって、小児が二人背中合せに枕して、真中《まんなか》に透いた処がある。乳母《うば》が両方を向いて寝かし附けたらしいが、よく寝入っていて、乳母は居なかった。
 トそこを通り越して、見えなくなったきり、襖も閉めないで置きながら、夫人はしばらく経《た》っても来なかった。
 早瀬は灰に突込んだ堆《うずたか》い巻莨《まきたばこ》の吸殻を視《なが》めながら、ああ、喫《の》んだと思い、ああ、饒舌《しゃべ》ったと考える。
 その話、と云うのが、かねて約束の、あの、ギョウテの(エルテル)を直訳的にという註文で、伝え聞くかの大詩聖は、ある時シルレルと葡萄の杯を合せて、予等《われら》が詩、年を経るに従いていよいよ貴からんことこの酒のごとくならん、と誓ったそうだわね、と硝子杯《コップ》を火に翳《かざ》してその血汐《ちしお》のごとき紅《くれない》を眉に宿して、大した学者でしょう、などと夫人、得意であったが、お酌が柳橋のでなくっては、と云う機掛《きっかけ》から、エルテルは後日《ごにち》にして、まあ、題も(ハヤセ)と云うのを是非聞かして下さい、酒井さんの御意見で、お別れなすった事は、東京で兄にも聞きましたが、恋人はどうなさいました。厭だわ、聞かさなくっちゃ、と強いられた。
 早瀬は悉《くわ》しく懺悔《ざんげ》するがごとく語ったが、都合上、ここでは要を摘んで置く。……
 義理から別離《わかれ》話になると、お蔦は、しかし二度|芸者《つとめ》をする気は無いから、幸いめ[#「め」に傍点]組の惣助《そうすけ》の女房は、島田が名人の女髪結。柳橋は廻り場で、自分も結って貰って懇意だし、め[#「め」に傍点]組とはまたああいう中で、打明話が出来るから、いっそその弟子になって髪結で身を立てる。商売をひいてからは、いつも独りで束ねるが、銀杏返《いちょうがえ》しなら不自由はなし、雛妓《おしゃく》の桃割ぐらいは慰みに結ってやって、お世辞にも誉められた覚えがある。出来ないことはありますまい、親もなし、兄弟もなし、行く処と云えば元の柳橋の主人の内、それよりは肴屋《さかなや》へ内弟子に入って当分|梳手《すきて》を手伝いましょう。……何も心まかせ、とそれに極《き》まった。この事は、酒井先生も御承知で、内証《ないしょう》で飯田町の二階で、直々《じきじき》に、お蔦に逢って下すって、その志の殊勝なのに、つくづく頷《うなず》いて、手ずから、小遣など、いろいろ心着《こころづけ》があった、と云う。
 それぎり、顔も見ないで、静岡へ引込《ひっこ》むつもりだったが、め[#「め」に傍点]組の惣助の計らいで、不意に汽車の中で逢って、横浜まで送る、と云うのであった。ところが終列車で、浜が留まりだったから、旅籠《はたご》も人目を憚《はばか》って、場末の野毛の目立たない内へ一晩泊った。
(そんな時は、)
 と酔っていた夫人が口を挟んで、顔を見て笑ったので、しばらくして、
(背中合わせで、別々に。)
 翌日、平沼から急行列車に乗り込んで、そうして夫人《あなた》に逢ったんだと。……


     うつらうつら

       十八

 中途で談話《はなし》に引入れられて鬱《ふさ》ぐくらい、同情もしたが、芸者なんか、ほんとうにお止しなさいよ、と夫人が云う。主税は、当初《はじめ》から酔わなきゃ話せないで陶然としていたが、さりながら夫人、日本広しといえども、私にお飯《まんま》を炊《たい》てくれた婦《おんな》は、お蔦の他ありません。母親の顔も知らないから、噫《ああ》、と喟然《きぜん》として天井を仰いで歎ずるのを見て、誰が赤い顔をしてまで、貸家を聞いて上げました、と流眄《しりめ》にかけて、ツンとした時、失礼ながら、家で命は繋《つな》げません、貴女は御飯が炊けますまい。明日は炊くわ。米を※[#「睹のつくり/火」、第3水準1−87−52]《に》るのだ、と笑って、それからそれへ花は咲いたのだったが、しかし、気の毒だ、可哀相に、と憐愍《あわれみ》はしたけれども、徹頭徹尾、(芸者はおよしなさい。)……この後たとい酒井さんのお許可《ゆるし》が出ても、私が不承知よ。で、さてもう、夜が更けたのである。
 出て来ない――夫人はどうしたろう。
 がたがた音がした台所も、遠くなるまで寂寞《ひっそり》して、耳馴れたれば今更めけど、戸外《おもて》は数
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