乗って、大きな書棚の上には、世帯道具が置いてある。
 湯は、だだっ広い、薄暗い台所の板敷を抜けて、土間へ出て、庇間《ひあわい》を一跨《ひとまた》ぎ、据《すえ》風呂をこの空地《くうち》から焚くので、雨の降る日は難儀そうな。
 そこに踞《しゃが》んでいた、例のつんつるてん鞠子の婢《おさん》が、湯加減を聞いたが上塩梅《じょうあんばい》。
 どっぷり沈んで、遠くで雨戸を繰る響、台所《だいどこ》をぱたぱた二三度行交いする音を聞きながら、やがて洗い果ててまた浴びたが、湯の設計《こしらえ》は、この邸に似ず古びていた。
 小灯《こともし》の朦々《もうもう》と包まれた湯気の中から、突然《いきなり》褌《ふんどし》のなりで、下駄がけで出ると、颯《さっ》と風の通る庇間に月が見えた。廂《ひさし》はずれに覗《のぞ》いただけで、影さす程にはあらねども、と見れば尊き光かな、裸身《はだみ》に颯と白銀《しろがね》を鎧《よろ》ったように二の腕あたり蒼《あお》ずんだ。
 思わず打仰いで、
「ああ、お妙《たえ》さん。」
 俯向《うつむ》いた肩がふるえて、
「お蔦!」
 蹌踉《よろめ》いたように母屋の羽目に凭《もた》れた時、
「早瀬さん、」と、つい台所《だいどこ》に、派手やかな夫人の声で、
「貴下、上ったら、これにお着換えなさいよ。ここに置いときますから、」
「憚《はばか》り、」
 と我に返って、上って見ると、薄べりを敷いた上に、浴衣がある。琉球|紬《つむぎ》の書生羽織が添えてあったが、それには及ばぬから浴衣だけ取って手を通すと、桁短《ゆきみじか》に腕が出て着心の変な事は、引上げても、引上げても、裾が摺《ず》るのを、引縮めて部屋へ戻ると……道理こそ婦物《おんなもの》。中形模様の媚《なまめ》かしいのに、藍《あい》の香が芬《ぷん》とする。突立って見ていると、夫人は中腰に膝を支《つ》いて、鉄瓶を掛けながら、
「似合ったでしょう、過日《いつか》谷屋が持って来て、貴下が見立てて下すったのを、直ぐ仕立てさしたのよ。島山のはまだ縫えないし、あるのは古いから、我慢して寝衣《ねまき》に着て頂戴。」
「むざむざ新らしいのを。」
 と主税は袖を引張る。
「いいえ、私、今着て見たの、お初ではありません。御遠慮なく、でも、お気味が悪くはなくって。ちょいと着たから、」
「気味が悪い、」
「…………」
「もんですか。勿体至極もござらん。」
 と極《きま》ったが、何かまだ物足りない。
「帯ですか。」
「さよう、」
「これを上げましょう。」
 とすっと立って、上緊《うわじめ》をずるりと手繰った、麻の葉絞の絹|縮《ちぢみ》。
「…………」
 目を見合せ、
「可《い》いわ、」
 とはたと畳に落して、
「私も一風呂入って来ましょう。今の内に。」
 主税はあとで座敷を出て、縁側を、十畳の客室《きゃくま》の前から、玄関の横手あたりまで、行ったり来たり、やや跫音《あしおと》のするまで歩行《ある》いた。
 婢《おさん》が来て、ぬいと立って、
「夫人《おくさま》が言いましけえ、お涼みなさりますなら雨戸を開けるでござります。」
「いや、宜《よろ》しい。」
「はいい。」と念入りに返事する。
「いつも何時頃にお休みだい。」
 と親しげに問いかけながら、口不重宝な返事は待たずに、長火鉢の傍《わき》へ、つかつかと帰って、紙入の中をざっくりと掴んだ。
 疾《はや》い事、もう紙に両個《ふたつ》。
「一個《ひとつ》は乳母《ばあや》さんに、お前さんから、夫人《おくさん》に云わんのだよ。」

       十七

 寝たのはかれこれ一時。
 膳は片附いて、火鉢の火の白いのが果敢《はか》ないほど、夜も更けて、寂《しん》と寒くなったが、話に実が入《い》ったのと、もう寝よう、もう寝ようで炭も継がず。それでも火の気が便りだから、横坐りに、褄《つま》を引合せて肩で押して、灰の中へ露《あら》わな肱《ひじ》も落ちるまで、火鉢の縁《ふち》に凭《もた》れかかって、小豆《あずき》ほどな火を拾う。……湯上りの上、昼間|歩行《ある》き廻った疲れが出た菅子は、髪も衣紋も、帯も姿も萎《な》えたようで、顔だけは、ほんのりした――麦酒《ビイル》は苦くて嫌い、と葡萄酒を硝子杯《コップ》に二ツばかりの――酔《えい》さえ醒めず、黒目は大きく睫毛《まつげ》が開いて、艶やかに湿《うるお》って、唇の紅《くれない》が濡れ輝く。手足は冷えたろうと思うまで、頭《かしら》に気が籠った様子で、相互《たがい》の話を留《や》めないのを、余り晩《おそ》くなっては、また御家来|衆《しゅ》が、変にでも思うと不可《いけ》ませんから、とそれこそ、人に聞えたら変に思われそうな事を、早瀬が云って、それでも夫人のまだ話し飽かないのを、幾度《いくたび》促しても肯入《ききい》れなかったが……火鉢で隔てて、柔かく乗出
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