塀の前を、用水が流るるために、波打つばかり、窓掛に合歓《ねむ》の花の影こそ揺れ揺れ通え、差覗く人目は届かぬから、縁の雨戸は開けたままで、心置なく飲めるのを、あれだけの酒|好《ずき》が、なぜか、夫人の居ない時は、硝子杯《コップ》へ注《つ》ける口も苦そうに、差置いて、どうやら鬱《ふさ》ぐらしい。
襖《ふすま》が開《あ》いた、と思うと、羽織なしの引掛帯《ひっかけおび》、結び目が摺《ず》って、横になって、くつろいだ衣紋《えもん》の、胸から、柔かにふっくりと高い、真白《まっしろ》な線を、読みかけた玉章《たまずさ》で斜めに仕切って、衽下《おくみさが》りにその繰伸《くりのば》した手紙の片端を、北斎が描いた蹴出《けだし》のごとく、ぶるぶるとぶら下げながら出た処は、そんじょ芸者《それしゃ》の風がある。
「やっと寝かしつけたわ。」
と崩るるように、ばったり坐って、
「上の児《こ》は、もう原《もと》っから乳母《ばあや》が好《い》いんだし、坊も、久しく私と寝ようなんぞと云わなかったんだけれども、貴下にかかりっきりで構いつけないし、留守にばっかりしたもんだから、先刻《さっき》のあの取ッ着かれようを御覧なさい。」
と手紙を見い見い忙《せわ》しそうに云う。いかにもここで膳を出したはじめには、小児《こども》が二人とも母様《かあさん》にこびりついて、坊やなんざ、武者振つく勢《いきおい》。目の見えない娘《こ》は、寂《さみ》しそうに坐ったきりで、しきりに、夫人の膝から帯をかけて両手で撫でるし、坊やは肩から負われかかって、背ける顔へ頬を押着《おッつ》け、躱《かわ》す顔の耳許《みみもと》へかじりつくばかりの甘え方。見るまにぱらぱらに鬢《びん》が乱れて、面影も痩《や》せたように、口のあたりまで振かかるのを掻《か》い払うその白やかな手が、空を掴《つか》んで悶《もだ》えるようで、(乳母《ばあや》来ておくれ。)と云った声が悲鳴のように聞えた。乳母《うば》が、(まあ、何でござります、嬢ちゃまも、坊っちゃまも、お客様の前で、)と主税の方を向いたばかりで、いつも嬢さまかぶれの、眠ったような俯目《ふしめ》の、顔を見ようとしないので、元気なく微笑《ほほえ》みながら、娘の児の手を曳《ひ》くと、厭々それは離れたが、坊やが何と云っても肯《き》かなくって、果は泣出して乱暴するので、時の間も座を惜しそうな夫人が、寝かしつけに行ったのである。
そこへ、しばらくして、郵便――だった。
すらすらと読果てた。手紙を巻戻しながら顔を振上げると、乱れたままの後れ毛を、煩《うる》さそうに掻上げて、
「ついぞ思出しもしなかった、乳なんか飲まれて、さんざ膏《あぶら》を絞られたわ。」
と急いで衣紋を繕って、
「さあ、お酌をしましょう。」
瓶を上げると、重い。
「まあ、ちっとも召喫《めしあが》らないのね。お酌がなくっては不可《いけな》いの、ちょいと贅沢《ぜいたく》だわ。ほほほほ、家《うち》も極《き》まったし、一人で世帯を持った時どうするのよ。」
「沢山頂きました、こんなに御厄介になっては、実に済みません……もう、徐々《そろそろ》失礼しましょう。」
と恐しく真面目に云う。
「いいえ、返さない。この間から、お泊んなさいお泊んなさいと云っても、貴下が悪いと云うし、私も遠慮したけれど、可《い》いわ、もう泊っても。今ね、御覧なさい、牛込に居る母様《かあさま》から手紙が来て、早瀬さんが静岡へお出《いで》なすって、幸いお知己《ちかづき》になったのなら、精一杯御馳走なさい、と云って来たの。嬉しいわ、私。
あのね、実はこれは返事なんです。汽車の中でお目にかかった事から、都合があってこちらで塾をお開きなさるに就いて、ちっとも土地の様子を御存じじゃない、と云うから、私がお世話をしてなんて、そこはね、可いように手紙を出したの、その返事、」
と掌《てのひら》に巻き据えた手紙の上を、軽《かろ》く一つとんと拍《う》って、
「母様《かあさん》が可い、と云ったら、天下晴れたものなんだわ。緩《ゆっく》り召食《めしあが》れ。そして、是非今夜は泊るんですよ。そのつもりで風呂も沸《わか》してありますから、お入んなさい。寝しなにしますか、それとも颯《さっ》と流してから喫《あが》りますか。どちらでも、もう沸いてるわ。そして、泊るんですよ。可《よ》くって、」
念を入れて、やがて諾《うん》と云わせて、
「ああ、昨日《きのう》も一昨日《おととい》も、合歓の花の下へ来ては、晩方|寂《さみ》しそうに帰ったわねえ。」
十六
さて湯へ入る時、はじめて理学士の書斎を通った。が、机の上は乱雑で、そこに据えた座蒲団も無かった、早瀬に敷かせているのがそれらしい。
机には、広げたままの新聞も幅をすれば、小児《こども》の玩弄物《おもちゃ》も
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